前書きなど
この本の〈たましい〉
いい本になったと思う。
「貧困と学力」について、各論者が具体的にさまざまな角度から論じ、貧困を多層的重層的にとらえている。貧困が、表層的な金銭レベルではなく、岩川の言う「からだ・場・社会関係」における貧困として示され、それに対し、私たちが求めているほんとうに豊かな教育とはどのようなものかが、かなり明確に描写された。
ここで特にふれておきたいのは、本書で紹介される「すごい実践」のことだ。湯浅論文の「生活保護世帯の子どもに勉強をボランティアで教える」という話、島田論文の「東京私立小学校での、優等生たちの、勝ち組志向に囚われた内面や関係性の貧困性の指摘と、そのなかでの、劇づくりなどでの生き生きとした感性を取りもどす学び」の話、河野論文の「荒れていてみんなの困り者とされていて、学校も冷たかったヒロシへの対応を、学童保育において愛情深く関わった」という話、などなど。すごい話じゃないか。関わるおとなの〈たましい〉が感じられるじゃないか。これぞ教育じゃないか。涙が出てくる話じゃないか。
何が「学力」「全国一斉全国学力テスト」だ。そんなウスッぺらい表面的な数字に囚われている人は、心して本書を読むがいい。あーあ、メディアで報じられる政府の教育再生会議や東京都教育委員会の粗雑さ・乱暴さとの、この天地の差。教育予算を増やさず、ほんとうに質のいい教育を行っている実践を大事にするのでもなく、国家主義的な道徳の注入と、管理・罰則の強化と、市場原理を導入して競争させればいいなどとのたまう人たち。「ゆとり教育」をいけにえにし、「お上」の意に沿わぬ教員を「処分」していこうという動き。
それにしても、ヒロシに関わる河野さんのねばりや親たちの愛情深さ。それに比して一部ではあろうが、学校教員の官僚的な態度には、怒りがわいてくる。何のために教師、やっているんだよ! 官僚的といえば、公務員でもボランティアで勉強を教えちゃうという公務員的でない柔軟さは、まぶしい。本書から伝わる“豊かなもの”は、序章の岩川さんの「関係性のなかで編み直される主体性」という深い提起がけっして空論ではないことを示している。
「あとがき」から読まれる人に言いたい。「貧困と学力/教育」というと、「ああ、2006年に足立区の就学援助率などで報道された問題ね。でも、もうその話も古いんじゃないの?」といった感覚をもたれる人もいるかと思う。だから、どうか第1章湯浅論文、第4章島田論文、同じく河野論文をまず読んでほしい。そうすれば、本書が、想定範囲内の本ではないとわかるだろう。「一人ひとりの子どもと教師の顔を見ない、数量的な教育観」は、関係性のなかで立ち上がる複雑さと豊かさを見据えた本書の教育論によって粉砕されるだろう。
派遣業、ネットカフェや敷金礼金なしの賃貸住宅などが、ワーキングプアを食い物にする貧困ビジネスであるように、全国一斉学力テストに代表される新しい教育がベネッセなどの外部企業によるビジネスの対象にされていいのか。今まさに、社会全体が新自由主義のなかで貧困労働者層を大量につくり出すとき、教育は、それに向かい合う“反貧困的なもの”でなくてはならないのではないか。本書の〈たましい〉はそう問いかける。
伊田広行