目次
「アジア現代女性史」シリーズの刊行にあたって(アジア現代女性史研究会代表 藤目ゆき)
謝 辞
第1章 私、フェミニズム、民主主義、人権
研究上の動機
探究すべき問い
研究の目的
研究の範囲
予想される有益な点
語の定義
第2章 女性としての経験からの理論構築
1 フェミニズムのさまざまな学派の考え方
2 女性の権利は民主主義の権利、女性の権利は人権という考え方
3 フェミニズムに沿った女性の経験の記録
4 ブラック・フェミニズムの思想
第3章 証言——一〇・一四のフェミニスト
研究のためのデータ収集方法
分析方法
第4章 民主主義の道程上のフェミニスト
フェミニズムの理念の誕生——女性と男性の平等のために
反独裁——タマサートでの民主主義理念の誕生
「私たちはタマサートを愛している。なぜならタマサートは私たちに人民を愛すように教えたからだ」——公正のための闘争の学習
「一〇・一四」以後——女性運動のさらなる前進
七六・一〇・六——独裁は女性の闘争精神を消し去ることはできない
三つの連帯——大学生、労働者、農民
ラートヤーオ女性刑務所——刑務所内の暴力
「七六・一〇・六」の包囲弾圧
信念による次のステップ
第5章 戦闘状況のフェミニスト
民主化闘争——赤旗の下で
独裁の法律——幼子を抱えた母親囚人と暗黒刑務所
民主主義を守るための闘い
女性と政治
私——フェミニスト、民主主義者、人権家
第6章 「一〇・一四のフェミニスト」の教訓——闘争過程の学習
異なった道程の上で——フェミニズム理念の発生
戦略——政治、憲法、ネットワーク、そして「フェミニズム思想」の旗を掲げる
キャンペーンからの教訓——ネットワークの構築と「共通点を探り、相違点を保持する」
挑戦的な責務——法律、実践、見解の変革のためにフェミニズム思想の旗を掲げる
まだ出ていない結論
第7章 経験から理論へ
フェミニズム、民主主義、そして人権の理念の統合過程
三つの理念の統合を推進した要因——経験を通して
「一〇・一四のフェミニスト」の活動に影響を与えた三つの理念の統合の発展
現在の戦略に反映した「一〇・一四のフェミニスト」の統合過程の再検討
「一〇・一四のフェミニスト」的な活動——他のフェミニズム運動へ向かう知識ベース
結 尾
原 注
訳 注
訳者あとがき(増田 真)
参考文献
前書きなど
訳者あとがき
本書はスニー・チャイヤロットさんが二〇〇四年五月にタマサート大学大学院女性学コースに提出した修士論文『Kanlomruam udommakan feminist prachathipatai lae sitthi manutsayachon: suksa phan prasopkan Sunee Chaiyarose(フェミニズム、民主主義および人権の理念の統合——スニー・チャイヤロットの経験的研究)』の日本語訳である。アジア現代女性史研究会が二〇〇四年九月に最初の調査旅行でタイを訪れた際、スティー・プラサートセート先生とマーリー・プルックポンサーワリー先生から、提出されたばかりのスニーさんの論文を紹介された。アジア現代女性史研究会の趣旨に則していることがわかり、早速、日本語訳を作成することが決まった。
本論文の最大の特徴と魅力は、著者自身の波乱にみちた半生を中心に母親や友人たちの話を交えながらタイ現代史における女性の社会的状況が具体的に描かれていることである。特に、子ども時代の生活、二度にわたる刑務所での生活、そして森で武装闘争を行っていた頃の生活は当事者にしか知りえない状況が詳細に示されており、非常に興味深い話がたくさんある。また、母親のキムスワンさんの手記や友人である「一〇・一四のフェミニスト」たちの証言についても、一人の女性の物語として、また、スニーさんの主張を理解する上でも貴重な資料となっている。こうした具体的な記述の部分は女性学やフェミニズムに関する知識や関心があまりない人にとっても興味を持てる内容であろう。
本論文はタマサート大学の二〇〇三年度優秀論文に選ばれたが、選考委員の中に「個人史をもとに論文を書くことが妥当かどうか」という疑問の声があったようだ。しかしながら、本書の目的は単なる個人史を書くことでなく、自らの経験に照らし合わせながら、フェミニズム、民主主義、そして人権の理念の統合過程を明らかにし、それらの理念の実践、並びに経験の理論化にまで結びつけることである。スニーさんも述べているように、さまざまな女性の経験は単に個人的な問題でなく社会全体の問題につながっているし、それらの経験を持ち寄って分析することの意義も説明されている。したがって、個人史をもとに研究を行うという方法自体を批判することは本論文に関しては正当ではないだろう。
スニーさんの人生や活動については本文中に詳しく描かれているので、簡単に略歴だけ紹介しておく。スニーさんは一九五四年六月二四日生まれ、旧名はニパーパン・パッタナパイブーンで、結婚した際に現在の名前に改名した(本書でも他の文献でも旧名で言及されている場合があるので注意が必要である)。一九七〇年にタマサート大学経済学部に入学、一年生のときから学生運動に参加し、四年生のときに「七三・一〇・一四事件」を経験した。卒業後は労働組合を手助けする仕事をし、七六年三月に共産主義者容疑で逮捕され、四カ月間収監された。「七六・一〇・六事件」が起きると、姉や友人とともに東北タイの森に入り、タイ国共産党の武力闘争に加わった。八二年に森から出てきて、八七年に夫とともに再び共産主義者容疑で逮捕され、生後二カ月半の息子を抱えて刑務所に八カ月間収監された。出所後は編集者として働いたのち、ノーンブワラムプー県県会議員、憲法起草議会委員などを務め、現在は国家人権委員として多忙な日々を送っている。本論文は国家人権委員の職務をこなしながら書き上げたものである。
スニーさんの半生をタイ史の流れに位置づけると、一九五〇年代末からのサリットの開発独裁体制によって社会が大きく変化し始めた時期とほぼ重なる。サリット時代、それを継いだタノーム=プラパート体制下では民主主義の理念は後退した。一九六〇年代半ばからはベトナム戦争への対米協力が本格化し、国内でも武装闘争を開始したタイ国共産党に対する掃討作戦が実施された。一方、積極的に工業化が進められ、農村から多くの女性が安価な工場労働者として雇われるようになった。また、タイで休暇を取る米兵向けの性産業が成長した。一方、一九六〇年代末から一部の大学生がグループを作って反ベトナム戦争などの政治的な活動を行うようになった。一九七〇年代に入ると、日本商品不買運動を一つの契機として学生運動が活発になり、一般市民からも注目を集めるようになった。勢いをつけた学生運動は反日運動のみならず、反独裁の運動へと拡大していき、「七三・一〇・一四事件」に至ったのである。事件後、民主的な政治の雰囲気の中で学生、労働者、農民などの運動が盛んに行われたが、軍部を中心とした旧勢力の巻き返しがあり、「七六・一〇・六事件」が起きた。そこで多くの人たちが森に入り、タイ国共産党の武装闘争に参加したが、やがてタイ国共産党の姿勢に幻滅し、八〇年代初頭のプレーム政権による穏健路線もあって、多くの人々が森から出てくるようになった。八〇年代は曲がりなりにも議会制民主主義が実現していたが、九一年に軍部がチャートチャイ政権の腐敗を理由にクーデターを敢行した。翌年にクーデター首謀者のスチンダーが首相の座に就くと、反スチンダーの運動が始まり、軍と民衆が衝突して多くの犠牲者を出した(「九二年五月事件」)。それ以後、軍部の政治的影響力は著しく後退し、九七年にはタイ史上もっとも民主的と言われる人民版憲法が誕生した。
しかしながら、周知のように、昨年九月一九日にソンティ陸軍司令官をリーダーとする「国王を元首とする民主主義政体の統治改革団」がタクシン政権の不正や王室に対する不敬な言動を理由として軍事クーデターを敢行し、一九九七年憲法を廃止し、国会、内閣、憲法裁判所の権限を停止した。当初、都市部を中心に国民の間ではクーデターを容認する声が高く、「統治改革団」によって指名されたスラユット首相の暫定政権の支持率も高かった。しかし、暫定政権の経済運営の失敗、タイ南部やバンコクの過激テロ事件など治安の悪化、タクシン前政権の不正追及の遅れなどから、今年になってから支持率は低迷している。現在、新しい憲法の制定作業が進められており、今年九月にその内容の是非を問う国民投票が予定され、一二月には下院議員の総選挙も予定されているが、今後のタイ政治がどう進んでいくのか不透明な部分も多い。いずれにせよ、スニーさんや「一〇・一四のフェミニスト」がフェミニズム、民主主義、そして人権の理念のために闘い続けることは間違いないであろう。今年の七月に国家人権委員の任期が切れた後、スニーさんが具体的にどのような活動を行うのか注目していきたいところである。
二〇〇七年四月
増田 真