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辺縁のアジア (成蹊大学アジア太平洋研究センター叢書)

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詳しい情報
読み: ヘンエン ノ アジア : ケガレ ガ トイカケル モノ
出版社: 明石書店
単行本: 338 ページ
ISBN-10: 4750325104  ISBN-13: 9784750325101  [この本のウィジェットを作る]
NDC(9) : 389.2

紹介

ネオ・リベラリズムの浸透やグローバリズムの受容によって,アジアの不浄や差別をめぐる状況は大きく変化している。本書は,民俗学・社会学における伝統的な「ケガレ論」を,日本・台湾・韓国・マレーシアなど変容するアジア社会に広く敷衍する試みである。

目次

はじめに——辺縁のアジアから
第一部 世界宗教——「リセット」の帰趨
 台湾原住民が語る苦難のイエス——カトリック教会の場合(新屋重彦)
 「リセット」としての改宗
  ——マレーシア、オラン・アスリ社会のイスラーム改宗者(信田敏宏)
第二部 女 性——ケガレの生きられ方
 巫女とケガレ——韓国済州島と珍島の調査から(網野房子)
 女性は神輿の担ぎ手か?——玉前神社と神田明神の祭礼を通じて(海上直士)
第三部 出 自——絆という「呪縛」
 タイの山を貫く排除の入れ子構造
  ——グローバリゼーションは周縁的少数者にとっての福音か(綾部真雄)
 華南におけるミャオ族のケガレ観念——婚姻忌避の深層(曽 士才)
第四部 環境観——ケガレの濾過
 “ゴミ”の誕生
  ——ネパール・カトマンズ盆地における家庭ゴミ堆肥化プロジェクトと不浄観(山上亜紀)
総 論
 ケガレという解放? 不浄という呪縛?(阿部年晴)
あとがき

前書きなど

はじめに——辺縁のアジアから
1 ケガレ論の拡大的適用へ向けて
 本書は、ケガレ論の長い系譜を正統に受け継ぐことよりも、むしろケガレ論の裾野の拡大を目指したものである。これまでのケガレ論の主流が、「ケガレとは何か」という根源的問いを個々の事例の探求を通じて明らかにしようとしてきたものであるならば、本書は、必ずしもそこには拘泥せず、可能なかぎり広く間口をとったケガレの定義に依拠し、その適用が可能である(とわれわれが考える)さまざまな事例をより大きな背景の中に位置づけ直して考察しようとするものである。ここでは、そのための前提となる議論をごく簡単に整理し、個々の論考へつなげるための糸口を示しておく。
 まずケガレの定義についてであるが、ここでは、ケガレにまつわる多くの論考が立場や理論的差異を超えて共有する方向性を大枠において踏襲することにしたい。ケガレを「穢れ」と表記しようが、ケガレと不浄性とを概念上区別しようが、はたまた、すべての“ケガレ的”現象に通底する本質の同定を試みようが、あるいはその試みに異を唱えようが、そこには共通の前提が存在する。つまり、近年のどのような論考も、ケガレを(1)純粋な生理学的反応や反射とは区別されるべき社会的もしくは文化的現象、(2)ローカルな価値に基づき概念的に囲い込まれた特定の集団(あるいは個人)、事象、事物等を文脈や状況に応じて危険視もしくは排除しようとする現象、(3)境界性、両義性、中間的属性といった言葉で表現されるような、ある秩序の周縁もしくは、二つ以上のカテゴリーをめぐる接触や混交、そして越境などの中で発生する現象のうちのいずれか、もしくは複数にまたがるものとしてとらえようとする点では大筋において変わらないということである。したがって、ここ(「はじめに」)では仮に、そうしたメタなレベルでの前提に基づく議論の方向性を「ケガレ論」として広く括っておくことにしたい。ただし、広義の「ケガレ」の中でも特に「排除」の発想を機軸とする観念に言及する際には、関根(一九九五)にならって「不浄」という表現も用いる。
 本書所収の諸論文もまた、この意味でのケガレ論を受け継ぐものであることは間違いないが、「ケガレとは何か」についてのより細分化された認識、「ケガレ」や「不浄」をめぐる語彙の弁別の仕方、理論的方向性についてはあえて各論文間の統一は図らず、個々の執筆者の裁量に委ねてある。したがって本書が企図しているのも、ケガレ論の深化というよりは、むしろ広義のケガレ論の拡大的適用である。
 まず、どちらかといえば南アジア地域における事例を中心に推移してきた観のあるケガレ論のこれまでの位置に鑑み、ケガレもしくは浄と不浄という二項対立的発想が、どのようなローカルな価値もが内在させている普遍的なものであることを再確認したうえで、それをより幅広い地域(アジアに限定したものではあるが)における諸現象にあてはめて論じると同時に、これまで必ずしもケガレ論の文脈でとらえられてこなかったさまざまな差別や蔑視、賤視などを、改めてケガレにまつわる現象として位置づけ直すことを企図している。
 また、近年、各地におけるケガレ(あるいは不浄性)をめぐる状況に著しい変化が起きつつあり、各論文はその事実を大きく反映したものとなっている。欧米諸国に端を発するフェミニズムやネオ・リベラリズムの世界各地への浸透、国家をまたいだ人々の移動の飛躍的高まり、グローバリズムへの恭順の一つのかたちとしての改宗、対抗としての信仰の原理的回帰、超国家的環境観の確立などは世界の諸地域社会の相貌を大きく変え、ケガレとして翻訳しうるようなさまざまな土着的観念もまた、それに伴って新たな文脈に応じた再定義を受けるようになっていった。
 ただし、ケガレをケガレたらしめてきた力が弱体化し、すべての地域でケガレが雲散霧消する方向へ動いているかといえば、必ずしもそうではない。むろん、ケガレが秩序に対するある種のアンチテーゼである以上、秩序そのものが弱まればケガレに関する認識も同時に希釈されるし、ケガレに付随しがちな“つくられた”嫌悪が薄まり、実践としての排除や忌避が形骸化したルールとしてのみ残っていくことも少なくない。だが、その一方でグローバリゼーションに呼応したローカルな価値の再編が既存の秩序をより強化するケースもあり、そのようなところでは、ケガレ観に基づく差別までもが同時に強化されうる。
 一方、先に挙げたケースとは反対に、両義的な性格を持ったケガレ、すなわち神聖視(あるいは畏怖)と不浄視とが表裏一体になったケガレをある種の「ルール」として忌避していたのが、ルールの背景が忘れ去られ、後づけ的な嫌悪だけが残っていくこともあるだろう。両義性(あるいは多義性)が一義性へと転換されるといったほうがわかりやすいだろうか。ローカルな場を生きる人々の主観的文脈において、ケガレはしばしば歪んだかたちで一義的な不浄性へと本質化されていく。
 そうした本質化されたケガレ(不浄)観が特定の人々を今なお苦しめているとしたら、二一世紀という新たな時代に見出しうる一つの救いは、人々が、ケガレを生み出す文脈に一方的に取り込まれるだけでなく、個々の価値においてケガレを相対化したうえで、そこから物理的にも観念的にも距離を置くことが以前にも増して可能になってきたことだ。最も端的には、自己にまつわるケガレが意味を失う国内外の新たな地へ移住すること、もしくは、ケガレ観を生み出す源泉である信仰体系から自己を切り離し、よりリベラルな価値を奉ずるか、キリスト教などの宗教へ改宗するといった方法論によって実存的変革を図ることなどが挙げられるだろう。身を置く文脈自体が肯定的な方向へと変質するのが最も理想的であるとはいえ、少なくともそれを座して待つ必要がなくなりつつあることの意味は看過できない。
 もっとも、移住や改宗は決して新しい現象ではない。新しいのは、そこへ踏み切ることが異端視、特殊視されにくくなった状況そのものだ。任意の個人とその個人が生きる日常的生活領域やネットワークとの関係性が緩まったといってもよいだろう。そこから切り離されることが社会的な「死」を意味しえた過去とは違い、人々はより多元的な文脈を生きることが可能になり、自己と数々の文脈との関係性をある程度主体的に操作できるようにもなった。自己にケガレを付与する文脈からは距離を置き、他の文脈に軸足を移す、そういった操作を行うことが少なくとも特殊なことではなくなっている。ただし、そうした状況下では、「差別する側」と「差別される側」との関係自体も多様化する。両者のポジションが、文脈に応じて逆転することもあれば、「される側」の社会的成功が「する側」の攻撃や中傷をトーンダウンさせ、それがゆえにかえって差別を裏打ちしている不浄観が社会の深奥に潜行していき見えにくくなることもある。そこには、「新たな装いを持った差別」が生み落とされる余地もあるのだ。
 ところで、ケガレはそのすべてが人間社会における差別につながるわけではむろんない。それは、可視的な「モノ」に付与される文化的属性であることもあれば、より抽象的な「状況」に付帯しうるものでもある。古典的な議論を踏襲すれば、「秩序」とは、それ自体がどのようなもので、どのような性格を持つものなのかを判じにくいものであるがゆえに、あえてそこに構造的な「外部」を設け、両者が接し合う領域にケガレの観念を持ち込むことでこそ輪郭を現す。したがって、人間が秩序の下に生きる以上、ケガレの発生自体は不可避であるが、どのような「モノ」や「状況」にケガレが文化的に付与されるのかは、「内部」を彩る価値にもよれば、「外部」の設定のされ方にもより、地域によって大きな偏差を持つ。
 しかしながら、現代世界の動態は、ここに二つの変化を持ち込んだ。一つには、ローカルな文脈における「内部」と「外部」との境界が、さらに大きな(超国家的もしくはグローバルな)文脈で機能する価値の介在を受けることによって激しく揺らいでいることであり、そしてもう一つには、境界を境界たらしめてきたローカルな論理そのものが「近代化」の名の下に解体され、従来の秩序もまたそれに伴って溶解しつつあることである。前者を敷衍したのが山上論文であり、山上は、ローカルな「けがれたモノ」が普遍的な「ゴミ」へと再定義される過程での葛藤を描いた。また後者を、単にリベラリズムの勝利として位置づけることへの留保を突きつけているのが阿部論文である。阿部は、秩序の鏡像として社会的平衡の維持に裏側から寄与するケガレを、全面的に否定することへ警鐘を鳴らす。
 ともあれ、ケガレがなにがしかの秩序の辺縁で生じるものであることは明らかなようだ。だが、そもそも「辺縁」とはどこなのか。それは、先住民社会をはじめとするさまざまなローカルな社会集団における秩序の「辺縁」をも意味しうるし、そうした社会全体がナショナルなレベルにおける「辺縁」として位置づけられることもある。さらには、ナショナルな全体性やアジアという枠組み自体を世界の「辺縁」として見ることも可能だ。他方、特定の秩序における「辺縁」は、文脈やレベルを置換することで象徴的逆転を起こして中心に位置づけ直されることもあれば、持続的な力が外側から作用することで、その辺縁性そのものを逓減させることもある。はたして現代世界の混沌は、新たな大秩序によって覆い尽くされつつあるのか。それとも、ローカルな秩序へと再解体・再編成されつつあるのか。もしくは、その両方が同時に進行しているのか。
 こうした問いかけを単なる“言葉遊び”や“論理ゲーム”として一蹴することもできる。しかし、世界のあらゆる種類の秩序を規定してきた諸々の論理が、従来の意味と位置づけを大きく変える過程、あるいは変えざるをえない状況にあることだけは確かである。そうした論理と表裏一体な関係性を持つケガレもまた、それに呼応して変わっていくのは当然だ。そこで、いま一度問い直す。
 今、アジアの辺縁で何が起こっているのか。辺縁はどこまで辺縁たりうるのか。辺縁的世界から眺めたとき、アジアはどのように映るのか。そして、ケガレはそこにどう介在するのか。本書の問題意識の源泉もここにある。

(中略)

 ケガレ(不浄)はアジア地域にあって今なお生きた現実だ。人間が「文化」や「社会」という言葉で言い習わしてきた豊かで厄介な荷物を背負う存在である以上、目的への合理的な最短距離を選択しない(できない)ひねくれ者である以上、今後もまたそうあり続けていくだろう。そして、ケガレの在り方自体もまた、それを取り巻く社会的環境に応じて常に変わり続けていくはずだ。以下に示す各論考は、そうした絶え間ない変化の中から切り取られた八枚の静止画にすぎない。だが、そこになんらかの同時代的な“動き”をも読み取っていただければ幸いである。
(編者)
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