目次
「アジア現代女性史」シリーズの刊行にあたって
(アジア現代女性史研究会代表 藤目ゆき)
序章 問題の所在と本研究の目的
1 問題の提起
2 先行研究の検討
3 研究の視角と対象の設定
4 史料の発掘・解読と追跡調査
5 本稿の構成
第1章 民国期における福州市の売春業と売春統制
第1節 売春業と売春規制
1 売春業の形成と売春への徴税
2 売春の登録と検診についての規制
第2節 売春統制の強化と廃娼活動
1 公娼からの徴税と私娼の取り締まり
2 売春廃止の措置と活動
第2章 人民共和国の買売春根絶政策と福州市の売春存続
第1節 買売春根絶政策の理念と特徴
1 婦女解放と人民の健康保護
2 買売春根絶政策の実施過程の特徴
第2節 福州市における買売春根絶政策の放置と売春存続
1 買売春根絶政策の放置
2 売春存続とその形式の変化
第3章 買春による幹部「腐化」の現象とその論理
第1節 幹部買春現象の問題化
1 幹部買春現象の露呈
2 幹部買春問題の重視
第2節 「幹部買春腐化」論について
1 「幹部を堕落させた売春婦」——売春女性加害者論
2 「幹部の買春による堕落」——買春者被害者論
3 「幹部買春堕落」論のセクシュアリティ
第4章 買売春根絶政策実施の具体的な過程
第1節 収容措置とその執行の企画
1 収容方策の検討とその決定
2 事前準備と収容対象者の選定
3 収容行動の執行企画
第2節 実施過程における宣伝と教化
1 上意下達式の収容措置の実施経緯
2 口頭宣伝による群衆の教化
第5章 買売春根絶政策実施の実態
第1節 売春女性の再教育と更生
1 収容・更生施設「教養院」の運営
2 収容所での教育の内容
3 売春女性の社会復帰の実現——社会的生産労働への参加
4 収容措置への異なる実感
第2節 売春経営者の収容と懲役
1 売春経営の実態
2 「売春宿を経営する」罪に対する懲役
終 章 結論および本研究の意義と課題
1 結論
2 本研究の意義と今後の課題
注
引用・参考文献および史料リスト
あとがき
前書きなど
あとがき
本書は、お茶の水女子大学大学院博士学位論文「中国における買売春根絶政策——一九五〇年代の福州市の実施過程を中心に」(二〇〇五年三月社会科学博士学位取得)に加筆・訂正したものである。
(中略)
私は、一九九〇年六月、中国での碩士(修士)学位論文「明代節婦烈女論考」を脱稿した際に、「貞操現象の反面に必ず買売春現象があり、これから買売春問題に取り組んでいこう」と決意したが、日本へ留学してから、中国の買売春現象の急速な蔓延にともない、買売春に関する問題意識がしだいに明確になった。
愛知大学大学院修士論文「毛沢東時代の廃娼運動」では、主に女性解放政策論の視座から建国直後の北京・上海をはじめ中国全土で行った妓院閉鎖・妓女収容の施政を取り上げ、中国共産党が妓院売春制度・買売春現象を、階級搾取と女性抑圧の産物そして革命の対象とし、すべての公娼・私娼を撤廃しようとした廃止主義者の公娼廃止運動とは異なる廃娼運動の検討を試みた。
それに対して、本稿は、中華人民共和国建国初期の廃娼運動について、従来、取り上げられたことのない地方都市における買売春根絶の実像を多くの貴重な一次史料を駆使して明らかにすることにより、建国初期の「国家による性支配」のイデオロギー構造と女性解放の内実を検討した論考である。ジェンダー構造・「国家による性支配」の視点から買売春根絶政策の実施過程をきわめて具体的に考察する方法において、社会主義国家の性支配イデオロギーの発見、国家イデオロギー装置による抑圧的性規制の問題として議論することの有効性を明確に示した。中国における買売春根絶政策のイデオロギーについては、女性解放政策の一環であることが広く知られていたが、本稿は、同時に「人民の健康の保障」という論理も広く謳われていたことを指摘するとともに、現実には福州の政策実施過程において重視されたのは、買売春が幹部の腐敗を導くとされたという政治的要因と台湾海峡西岸にある福建省福州市の「地政学的な要因」であったことを明らかにした。このような視座と方法は、中国社会主義国家体制という議論にも敷衍しうる可能性を示しているが、今もこの国で生きている筆者が現段階でこれ以上批判することははばかられる。
建国直後の妓院閉鎖の際に収容された売春女性のほとんどは、妓院に閉じこめられ虐待され搾取された女性たちである。こうした現代の自主的な売春女性とは異なる娼妓たちにとっては、中国共産党の収容措置と改造政策は、妓院生活の悲惨な境遇からの解放であったと言える。というのは、彼女らはこれにより生まれ変わり、新しい社会の建設に参与することができた。それゆえ、解放されたという思いや新しい社会を築きたいという熱望や共産党に対する感謝の念などがあふれていた。こういう事象を認める一方、史料解読と追跡調査の過程で、買売春が根絶された構造的な要因と時代背景は、同時代を同じ国で生活していない人々には理解されにくいということを強く実感した。私は「文化大革命」が始まる一九六六年に小学校に入学した。父方の祖父が地主だった(一九五二年「反革命鎮圧運動」のなかで銃殺刑にされた)ことと、父が大学教師・「臭老九」(当時の知識人に対する蔑称)であることから、出身家庭が悪いとされた。そのため、私は三人の姉たちが通った名門校へ入学することができず、家の近くの小学校に入学した。入学してまもなく、「停課鬧革命」(休校して革命に参加する)の時期にあたって、反革命とされた人たちが「遊街」(街中引き回すこと)されるのを幾度も目撃した。とりわけ、近所の二〇代の女性は「破鞋」(ふしだらな男女関係を持った、ふしだらな女)とされ、路地で人々に石を投げつけられたり、唾を吐きかけられたりしていた光景は今でも忘れられない。これらが、私的領域まで国家にコントロールされ、男女の交際さえも厳しく制限される性の国家支配体制を実証的に解明する意欲と、性の国家管理について考える原体験となった。
本書では、これまでの買売春根絶政策の研究史上で、北京・上海などの大都市の事例以外には取り上げられなかった地方都市の買売春根絶政策の実施実態について、多くの公文書史料の発掘と丹念な解読の作業および当事者への追跡調査に基づいて考察を行い、一九五〇年代の買売春根絶政策は、実際に娼妓として虐待され搾取されてきた女性たちを解放したという肯定的な側面と、それが禁欲主義的な中国共産党によるセクシュアリティに対する介入・統制でもあったことが検証された。
二〇〇六年一二月
林 紅