目次
第1章 序論(櫻田 大造/伊藤 剛)
2003年イラク戦争の様相
邦語での主要イラク戦争研究
比較外交政策論の先行研究
外交政策分析の枠組み
「国益」と「成功」の定義
政策決定「単位」とアリソンによる第3モデル
対応政策の類型化
外交政策スタイルや「過程」の類型化
本書における対象国の選定
本書の構成
第2章 小泉政権の対応外交(丸楠 恭一)
はじめに
イラク戦争前の対米外交
開戦前の国内状況と開戦時対応に向けての政策過程
イラク戦争勃発後の動向と国内世論の反響、対米関係への余波
政策決定要因
おわりに——満たされたようで満たされない「国益」
第3章 シュレーダー政権の対応外交(新谷 卓)
はじめに
欧米関係分断の構造的位相
総選挙とイラク戦争不参加表明
開戦前までの国内状況
開戦前のシュレーダー外交
開戦後シュレーダーの緊張緩和政策
おわりに
第4章 シラク政権の対応外交(鳥潟 優子)
はじめに
2003年1月の政策転換をどう説明するか
「力と法の均衡」というテーゼとフランス外交
湾岸戦争から国連決議1441の成立まで
2003年1月の政策転換
国連安保理と決議1441の解釈論争
シラク=ドヴィルパン外交の国内的基礎
モーターとしての大統領府
フランス世論の圧倒的支持
国民議会における論争と保守派の妥協
評価1=「国連重視」政策の成功
評価2=その他の「国益」への影響
EU統合
アラブ政策
おわりに
第5章 ブレア政権の対応外交(小川 浩之)
はじめに
ブレア政権の外交政策とイギリスの国益
イラクのWMD問題とブレア政権の対応
開戦に至るイギリス国内の反応
イラク戦争の勃発とブレア政権の政策展開
政策決定要因と「国益」の達成度
おわりに
第6章 ベルルスコーニ政権の対応外交(八十田 博人)
はじめに
戦後の対米関係とイタリア外交の変化
9月11日直後の超党派的ムード
ベルルスコーニ首相をとりまく国内状況
開戦直前の国内状況
開戦後の状況
派遣以後の展開
おわりに——外交政策の評価
第7章 胡錦濤政権の対応外交(伊藤 剛)
はじめに
背景としての「エネルギー安全保障」
米中関係とイラク戦争における中国の「国益」
中国政府のイラク戦争への対応
対応外交の評価
おわりに
第8章 クレティエン政権の対応外交(櫻田 大造)
はじめに
イラク戦争前のカナダの対外行動
クレティエン首相による政策発表
開戦前のカナダ国内での反戦論
イラク戦争の勃発とカナダ情勢
加米関係への余波
なぜカナダは参戦しなかったのか
クレティエン自身の政策決定要因
おわりに
第9章 結論(櫻田 大造/伊藤 剛)
主要7カ国の対応外交の比較
パワー・イメージ・アプローチによる外交スタイルの類型化
「国益」達成度をどのように評価するか
外交政策決定単位
対応外交の類型化——内政と外交の交錯
今後の課題
あとがき
編者・著者紹介
前書きなど
序 論2003年イラク戦争の様相 2003年3月17日に、アメリカのブッシュ(George W. Bush)大統領は、イラクのフセイン(Saddam Hussein)大統領に対して、実質上最後通牒となる演説を実施する。その内容は、フセインに対して、48時間以内にイラクを去り、政権を自主的に放棄することを義務付けていた。この演説はまた、国際連合により、その時まで継続していた、イラク保有の大量破壊兵器(WMD)査察努力に対して、時間切れを宣告する働きも持っていた。 実際、3月18日には、国連査察団がイラクから出国し、緊張は更に高まっていく。そして、3月20日には、米英軍主導のイラク侵攻作戦により、イラク国内の戦略拠点爆撃が開始された。ブッシュ大統領の正式開戦演説は、既に前日夜実施されており、20日夜には、イギリスのブレア(Tony Blair)首相による参戦声明も発表された。米英を中心とする有志連合によるイラク戦争はこのようにして勃発したのである。 イラク戦争自体は、比較的短期間で終了した。米英軍は、地上侵攻作戦を経て、4月14日にはイラク全土を制圧し、フセイン政権を打倒したと発表。5月1日には、ブッシュ大統領が戦闘終結宣言を実施している。 このイラク戦争は、それまでのブッシュ大統領による「対テロ戦争」とは異なる、国際的反応を集めることになる。ニューヨークと国防総省への同時多発テロ、いわゆる9・11事件を、ブッシュ政権は、対米「戦争」と捉え、対テロ戦争に乗り出した。9・11テロの首謀者とみなされたビンラディン(Osama Bin Laden)と彼が率いるアルカイダ(al Qaeda)の捕獲・掃討を目的とし、それをかくまっていたアフガニスタンのタリバン(Taliban)政権への武力攻撃を、2001年10月7日に開始した。アメリカの主要同盟国政府も「テロとの戦い」を支持し、アメリカによる対アフガニスタン空爆に一定の理解を示す。イギリス、カナダ、オーストラリアなどの同盟国もアフガニスタン戦争には参戦した。イスラム系国家ですら、軍事行動がアフガニスタンの外に拡がることには反対したが、アフガンに限定した軍事行動自体への反対を、表立って表明することはなかった。 その一方で、9・11事件のもうひとつの帰結は、2002年1月29日に発表されたアメリカ大統領一般教書演説であった。ブッシュは「テロリストと結託して、世界の平和を脅かすために武装している」脅威として、「イラン、イラク、北朝鮮」を名指しで、「悪の枢軸」に指定して非難した。 「悪の枢軸」への具体的な戦略は、2002年9月に発刊された「国家安全保障戦略」(ブッシュ・ドクトリン)で具現化される。この内容は、「アメリカの正義」により各国のテロリズム支援度を判定すると同時に、米国本土への攻撃を防ぐための「先制攻撃」が正当化されていた。この先制攻撃論は、将来攻撃される可能性がある潜在的脅威が顕在化する前に、敵対的アクターを殲滅するという「予防戦争」につながりかねなかった。その背後にあるエトスには、体制転換を武力的方法によって実現させ、ひいてはアメリカ流の民主主義化推進を目的とする政権内の新保守主義(ネオコン)派の思考が色濃く出ていた。 その後、ブッシュ政権は、国連安全保障理事会で、イラク攻撃を正式認定する「第2の決議案」を模索したが、結果的には失敗。国連のお墨付きのないままに、国際法上「違法」と認定されかねない対フセイン武力行使に踏み切ることになった。このように、イラク戦争はブッシュ・ドクトリンの適用例という側面も併せ持つ。 国際連合、北大西洋条約機構(NATO)、そして世界各国は、アフガン戦争とは際立った対応を、この戦争では見せることになった。本書でより詳述されているように、イギリスに代表される親米派は、自国軍隊を派兵することで、積極的に戦闘行為に参加した。しかし、大義となったフセイン政権のWMDが見つからないために、窮地に陥った政府がある。イタリアも政治的対米支持においては、似たような対応を模索した。 このような親米派とは対照的に、フランスやドイツなどの「古い欧州」は、国連によるフセイン政権の武装解除を目指し、戦争勃発後も、正式に米英有志連合への支持を打ち出すことはしなかった。日本以上に経済面で対米依存度が大きいカナダも、アメリカからの圧力に負けず、公式レヴェルでは、最後まで明確な対米支持は自粛した。日本の場合、政治的支持を表明したものの、憲法9条を盾に、交戦中は自衛隊を派兵せず、戦後復興目的で、イラクのサマワに自衛隊を派遣した。中国は、イラク戦争が開始されるまでは、国連の枠組みによる武力行使を行うべきことをフランス、ドイツ、ロシア各国と連帯して安保理で主張した。しかし、英米軍による武力攻撃が始まるとアメリカを強く批判することを控えるようになり、イラク戦争にはむしろ実質的に「容認」の態度を取るようになった。 世界各国に大きな衝撃を与え、昨今の国際事件でも極めて重要だったのが、イラク戦争であった。ところがその問題点を整理し、なおかつこの戦争をめぐる主要国の対応を、理論的に明らかにした邦語研究は、十分とは言いがたい。 (中略) 本書は、日本におけるイラク戦争関連の先行研究を踏まえて、国際システムにおける「主要国」の対イラク戦争外交の全貌を明らかにすることを、その目的のひとつとする。更に、それらの諸国の政策決定過程や当時のマスメディアでの論調を解析することで、当事国にとっての「イラク戦争の意味」を同時代史の文脈から問い直す。その際、政策決定者の立場から捉えた「国益」の概念を使用することで、対応外交の「成功度(「国益達成度」)」にも一定の判断を下したい。本書の最後の目的は、国際関係論のサブフィールドである比較外交政策論にも、一定の貢献をすることである。(後略)