目次
謝 辞
第1章 イントロダクション——歴史と生態学
環境史
生命共同体
共同体の生態学と歴史
エコロジカル・プロセス
第2章 原始の調和
セレンゲティ——人間と他の生物との関係
オーストラリア・カカドュ——原始の伝統
アリゾナ州のホピ族——土地の魂のなかにある農業
結論
第3章 文化と自然の大いなる離婚
ウルクの城壁——ギルガメシュと都市の起源
ナイル川渓谷——古代エジプトと持続可能性
ティカル——古代マヤ文化の崩壊
結論
第4章 思想と想像力
アテネ——思想と実践
西安——中国の環境問題と解決策
ローマ——環境からみた衰亡の理由
結論
第5章 中 世
フィレンツェとヨーロッパの情景——成長を阻止したもの
タヒチ、ハワイ、ニュージーランド——島の生態系に及ぼしたポリネシア人の影響力
クスコ——インカ帝国における環境保護
結論
第6章 バイオスフィアの変容
テノチティトラン——ヨーロッパの生物による侵略
ロンドン——工業化時代の都市、国、帝国
ガラパゴス諸島——ダーウィンの進化論
結論
第7章 開発と保護
西ガーツ山脈——伝統と変化
グランドキャニオン——保存か楽しみか
アスワン——ダムとその影響
結論
第8章 現代の環境問題
バリ——緑の革命?
ウィラメット国有林——巨木がいま倒されている
ブリヤンスク——チェルノブイリ以後
結論
第9章 現在そして未来
デンヴァー——場所の感覚
アマゾン——生物多様性への脅威
ナイロビと世界——国連環境計画
第10章 全体の結論
訳者あとがき
原 注
索 引
前書きなど
訳者あとがき 本書はAn Environmental History of the World: Humankind's Changing Role in the Community of Lifeの全訳である。著者のドナルド・ヒューズはUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で生物学の学士号、ボストン大学で神学の学士号、そして同じくボストン大学で歴史学の博士号を取得した学際的な研究者で、現在はデンヴァー大学(コロラド州)の歴史学教授である。専門領域は古代ギリシア、ローマ、エジプトの歴史であるが、地中海や太平洋諸島に、そして「聖なる森」にも関心を持っており、ドイツ語、ギリシア語、スペイン語、フランス語、ロシア語など多くの言語にも堪能だという。環境史を書くにはまさに適任者と言えよう。 本書の意図については著者が「イントロダクション」で詳しく説明しているが、環境史というのは歴史学の新しいテーマの一つとされている。それは環境の変化を単に歴史的に跡づけるのではなく、歴史学と生態学を結びつけることによって新しい視点を発見するインターディシプリナリーな学問である。著者はさまざまな地域、さまざまな文化をケーススタディとして提示しながら(実際に著者はイラクを除いてすべての地域を自分の足で歩き、眼で見て確認している)、生態学の視点に立って原始の時代から今日までの世界史を見直そうとしている。 環境史が新しい歴史学とされるのは、これまでの歴史学が人間中心であって、政治や経済や権力を中心テーマとしてきたのに対して、環境史は人間を含めた生態系全体を考察の対象とするからである。人間も生態系の一部であり、人間の活動が生態系を変化させるとともに、生態系が人間に影響を与えてきたことを考えるなら、自然環境の変化を視野に入れずに歴史を正確に見ることはできない。その意味では、従来の歴史学は歴史の一面しか見てこなかったことになる。 著者によれば、生態学は伝統的な歴史の見方を破壊する学問である。生態学の視点が取り入れられることで、これまで通説とされてきた歴史観が否定されたり、大きく変化したりするからだ。たとえば、三〇〇〜九〇〇年に高度な都市文明を誇っていたマヤ文明が突然姿を消したのはなぜか。これまでは侵略や病原菌、つまり人間の活動が原因というのが通説になっていたが、著者は生態系の崩壊も大きな要因の一つであったと見ている。また、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の征服も生物相による侵略が武器による侵略以上に破壊的な結果をもたらしたことを明らかにしている。このように生態学の視点を入れることで、わたしたちの歴史に対する見方はより多角的になり、豊かなものとなる。 環境破壊や生態系の危機については今では多くの人が知っているし、環境という言葉はありふれた用語になった。しかし、ここに来るまでには長い年月と自然環境の異変に気づき警鐘を鳴らすパイオニアが必要であった。たとえばレイチェル・カーソンは四〇年以上も前に農薬による環境汚染を憂慮して『沈黙の春』を書いていたし、日本でも石牟礼道子が水銀に汚染された水俣の海のことを『苦海浄土』に書いたのは六〇年代の終わりであった。しかしわたしたちはそれらの警告を深刻に受けとめなかった。著者が指摘するように、わたしたちは生態系を歴史を動かす重要な要素とは見ず、「背景」としてしか捉えてこなかった。 環境破壊や生態系の危機が広く知られるようになった今日でも、わたしたちの関心は環境保護よりも経済発展に向かいやすい。ましてや、地球全体の生態系の状態に想像力を働かせることは難しい。 生態系を守るためには地球全体の課題としなければならないという認識が各国に共有されるようになったのは一九九二年の「地球サミット」からであろう。ところが、各国の首脳が集まるこの会議でも地球全体の環境よりも国益が優先され、二酸化炭素の問題一つとってもなかなか合意には至らない。持続可能な開発という概念は依然として「開発」の方に重点が置かれている。途上国にしてみれば、地球環境を悪化させてきた主たる原因は一足先に経済成長を達成し、利益を独り占めにしてきた先進諸国にあるのだから、これから経済発展を目指す途上国に平等に規制を押しつけるのは不公平だということになる。 先進国と途上国の対立に加えて、先進国のなかにも国益優先のエゴイズムが見られる。生態系破壊の最大の元凶はなんといっても戦争であるが、依然として武力によって世界の秩序が保てると考えている超大国アメリカ。チェルノブイリを経験したにもかかわらず、相変わらず武力に依存してチェチェンを封じ込めようとしているロシア。核不拡散を主張しながら、自分たちを例外とする五大国。そして原爆によって甚大な被害を蒙り、その惨状を目に焼き付けているはずのわたしたちの社会でも、最近は憲法を改正して戦争のできる国にしようとする動きが出始めている。いずれの場合も、生態系への配慮はほとんど見られない。 そうやって手を拱いている間にも環境破壊は確実に進行している。つい最近の新聞にもマングローブの森がこの一〇〇年間にその面積を半減しているという記事が載った。インドやフィリピンでは約八〇パーセントも減少しているという。森を喪失させた原因の一つは枯葉剤の使用であるが、より大きな原因はエビの養殖場を作るために、あるいはエネルギー資源や製紙の原料として使うために森の木が大量に伐採されたことにある。わたしたちが日常的に使っている紙や備長炭もこれらの森の産物である。つまり、わたしたちの生活を快適にするために森が失われているということだ。森の喪失は生態系の破壊でもある。マングローブの森とともに数え切れないほどの動植物の種が絶滅してしまった。しかも、マングローブの森は一例に過ぎない。本書で詳しく述べられているように、オゾン層の破壊、土壌の浸食、湖沼の汚染、放射性物質の拡散などの事態もまた同時に進んでいる。わたしたちは快適な生活を手に入れる営みを文明と称して、自然環境を破壊してきたのだ。 希望はないのだろうか。そんなことはない、と著者は言う。過去の間違いを教訓にしてわたしたちが再生を可能にする行動をとるならば、まだ希望はあるはずだと。だが、そのためには、パラダイムの転換が必要である。著者は本書を通して近代とはなにか、文明とはなにかを問い直そうとしている。これまでは文明と野蛮が対比され、野蛮を克服するのが文明であると信じられてきたが、実は文明の名の下に野蛮(野生)が破壊されてきたのだ。そうであるなら、文明と野蛮の定義は反転させなければならない。 生態系に無関心でいることは生命そのものへの感性も衰えるということだ。金銭や物への執着、欲望の肥大化など、わたしたちの社会に見られる最近の風潮は確実にそのような感性の衰退を示しているように思う。そのような感性を取り戻すためにも、中世に人間と自然との共鳴を謳ったアッシジのフランチェスコの声や自然と人間を対等な存在として捉えていた宮沢賢治の声、その他多くの歴史のなかから聞こえてくる声に耳を傾けたいと思う。(後略)