目次
序文
第一章
大海原―岸辺への憧れ―陸地への恋やつれ―航海の最終目的地―マルケサス諸島―宣教師の妻、原住民の間で奮闘―ヌクヒヴァ女王の典型的な逸話
第二章
巡航海域からマルケサス諸島までの航海―船上での睡魔―南海の光景―陸が見えたぞ―ヌクヒヴァ湾にフランス艦隊停泊中―奇妙な水先案内―カヌーたちの先導―ココナツの小艦隊―泳ぎ来る訪問客―船は客で満杯―それからの事の成り行き
第三章
マルケサス諸島に於けるフランス海軍の最近の行動―提督の賢明な処置―異邦人到来がもたらした騒動―島民が初めて見た馬―省察―フランス海軍のお粗末なまやかし―タヒチにまつわる余談―提督、島を占領―あるイギリス夫人の意気軒昂たる行ない
第四章
船上の状況―貯蔵食料の内容―南海の船乗りの航海期間―果てしなく航海を続ける捕鯨船―船を捨てる決意―ヌクヒヴァ湾―タイピー族―タイピーの谷に侵入したポーター提督―省察―ティオルの峡谷―老いたる王とフラン海軍提督との会見
第五章
脱走に先立って考えたこと―船乗り仲間のトビー脱出行に同意―船上での最後の夜
第六章
船乗りの弁舌の一例―船乗りたちの批判―右舷当直、休暇を与えられる―山奥への脱出
第七章
山の反対側―失意―船から持ち出した品々―手持ちのパンの分け前―島の内陸部の様子―ある発見―峡谷といくつもの滝―眠られぬ夜―さらなる一連の発見―わが疾病―マルケサスの風景
第八章
重大な疑問、タイピー族かハッパル族か?―無駄な追求―わが苦痛―苦境―峡谷での一夜―朝食―トビーの楽観主義―タイピーの谷を目指す旅
第九章
谷へ至る危険な道程―谷への下り
第十章
峡谷の頂―慎重な前進―小道―果実―原住民二名を発見―彼らの奇妙な行動―谷間の居住区域へ向かう―われわれの出現がもたらした騒ぎ―ある原住民の住まいでの歓迎
第十一章
深夜の物思い―朝の訪問客たち―盛装の戦士―原住民医師―治療の施し―介抱係―谷間の住まいの描写―住人たちの横顔
第十二章
コリ‐コリの忠勤―彼の献身―流れでの水浴び―奔放なタイピーの乙女たち―メヘヴィとの散歩―タイピーの目抜き通り―タブーの森―ホオラ-ホオラ祭場―建物ティ―老残の原住民たち―メヘヴィの歓待―深夜の沈思―闇夜の冒険―訪問者に払われる顕著な敬意―奇妙な行列を組んでマルヘヨの住まいへ帰還
第十三章
ヌクヒヴァに救いを求める―ハッパル山中でのトビーの危険な体験―コリ‐コリの雄弁
第十四章
谷間での一大行事―島独自の電報―トビーの身に生じたこと―ファヤワイ優しい心遣い―陰鬱な反省―島民たちの謎めいた行動―コリ‐コリの献身―田舎風の寝椅子―ある贅沢―コリ‐コリ、タイピー式発火実演
第十五章
マルヘヨや島民たちの優しさ―パンノキに関する詳述―その実のさまざまな調理法
第十六章
憂鬱な状態―ティでの出来事―マルヘヨにまつわる逸話―ある戦士の頭を剃る
第十七章
心身の回復―幸せなタイピー族―彼らの楽しみと開化された社会のそれとの比較―開化した人間と未開の人間の悪さの比較―山中でのハッパル戦士たちとの小競り合い
第十八章
谷間の娘たちと一緒に泳ぐ―カヌー―タブーの影響力―池での行楽―ファヤワイの優雅な戯れ―ドレスを作る―余所者、谷間に現わる―彼の不可解な行動―現地語での雄弁―その結果―余所者、退去
第十九章
マルノオ退去後の感慨―豆鉄砲戦争―マルヘヨの変わった自惚れ―タパ作りの工程
第二十章
タイピーの谷間のある一日―マルケサス諸島の娘たちの踊り
第二十一章
アルヴァ谷の泉―壮大な遺跡―谷間で発見されたピ‐ピの歴史にまつわる若干の考察
第二十二章
谷間での大祭の準備―タブーの森での不思議な行ない―瓢のモニュメント―タイピーの乙女たちの晴れ着―祭りへの出陣
第二十三章
瓢の祭礼
第二十四章
瓢の祭礼から得られた考察―マルケサス諸島に関する公表された解説の不正確さ―その一つの理由―谷間では偶像崇拝は衰退―死せる戦士の人型―祭司コロルイと神モア・アルツア―驚くべき祭式―荒れ果てた神殿―コリ‐コリと偶像―ある推論
第二十五章
祭礼で集めた全般的な情報―タイピー人の肉体の美しさ―ほかの島の住民に優る美点―肌色の多様性―植物性化粧品と香油―航海者たちが証言しているマルケサス人の類い希な美しさ―皆無に近い文明人との交渉の証拠―くたびれたマスケット銃―統治形態は原始的な単純さ―メヘヴィ王の公的威厳
第二十六章
王メヘヴィ―ハワイの君主への言及―デリケートな事項に関するマルヘヨとメヘヴィの対処法―結婚の独特な仕組み―人口―画一性―死体防腐処理―埋葬場所―ヌクヒヴァでの葬式―タイピーの人口―住まいの分布―幸せなタイピーの谷間―警告―ハワイの現状に対する考察―ある宣教師の妻にまつわる話―オアフでの最新流行―考察
第二十七章
タイピー族の社会的な情勢と彼らの総体的な特徴
第二十八章
釣り大会―魚の分配法―深夜の宴―時を計る仕掛け―ぞっとしない魚の食べ方
第二十九章
タイピーの谷間の博物史―黄金のトカゲ―人怖じしない鳥たち―蚊―蠅―犬―ただ一匹のネコ―ココナツの木―気候風土―独特な登り方―身軽な若い族長―恐れを知らぬ子供たち―トオオ‐トオオが登ったココナツの木―谷間のさまざまな鳥たち
第三十章
ある刺青師―彼の強要―刺青とタブーについて―タイピーの方言についての考察
第三十一章
島民たちの奇妙な習慣―彼らの詠唱と独特な声―歌なるものを初めて聞いた王の狂喜―歌手に与えられた新たな威信―谷間にある楽器―ボクシングの試技を見た原住民の賛嘆―泳ぐ幼子―乙女たちの美しい長い髪―髪油
第三十二章
さまざまな危惧―恐ろしい発見―食人についての考察―ハッパル族との二度目の戦い―残酷な光景―謎めいた祭り―その後に分かったこと
第三十三章
余所者、また谷間に現われる―彼との奇妙な話し合い―脱出行―失敗―気の塞ぐ状態―マルヘヨの同情
第三十四章
脱出
トビーにまつわる話
注記
訳者あとがき
前書きなど
【訳者あとがき】
ここに訳出した「タイピー」は、アメリカの作家ハーマン・メルヴィルの処女作の全訳である。彼は「モービィ・ディック(白鯨)」の作家としてあまりにも有名であり、大方の読者諸氏はよくご存知のことだろう。実は、私にはある意味でメルヴィルは懐かしい作家なのである。ずいぶん昔のことになるが、私は学生だった折に卒論のテーマに「モービィ・ディック」を選んだのだ。当時は、ヘミングウェイ、D・H・ローレンス、フォークナー、グレアム・グリーンそのほか著名な作家の作品が目白押しで、「モービィ・ディック」を選んだのは同期生で確か私一人だった。すぐさま後悔した。全編読み通すだけでも、何しろ大部なので大変なうえに、捕鯨や船体のやたらに詳しい解説の数章などは暗中模索の連続だった。どうにか卒論は書き上げたが、何しろそんな体たらくだから、彼の周辺の作品を読んで研究を深めることなど論外だった。
今回思いがけず、「モービィ・ディック」を訳してみないかというありがたい言葉をかけてもらったのだが、上記の様な事情もあり、そのうえ、最近優れた新訳も登場していることでもあり、そちらは辞退申し上げたが、処女作「タイピー」の方は諸先輩の訳書がすでに三十年ほど絶版になっている状態なので、若い世代の人たちに読んでいただきたいという思いも働き、僭越ながら、あの際の不勉強ぶりを補うためにも、ここは一念発起、訳をさせてもらうことにした。これは正解だった。「処女作には、その作家のすべてが宿っている」とか言われているが、まさしく「タイピー」には青春の純粋無垢な、因習にとらわれない眼差しを備えたハーマン・メルヴィルが活き活きと息づいていて、巧まずして現代文明の見事な批評になっている。彼の原点がここに画然と記されている。
ご存知の方も多いだろうが、彼が船乗りになり、結果的にはそれが「タイピー」を書く機縁になったのだが、楽しい夢を思い描いて海に出たのではなかった。ニューヨークの裕福な輸入業者の息子だったのだが、十一歳の頃、父親が破産。二年後には狂死。生きるために学校を辞め、銀行員、小学校の教員をするも、借金取りに追われて住まいを転々と変える。二十歳のとき、初めて船乗りになった。そのときの彼の心境は定めし、「モービィ・ディック」の第一章にある〝口をへの字に歪めている自分にふと気づくとか……棺桶家の店前で立ちどまったり……すっかり塞ぎの虫に取りつかれ人に殴りかかりたくなったりしたら、海へ出る潮時だ〟そのものだったことだろう。あくる年の二十一歳の折に、彼は捕鯨船アクシュネット号でヌクヒヴァ島を訪れた。その際のメルヴィルの感激、感動は以上の背景に照らすならいっそうよく共感できるように思える。人食い人種タイピー族に軟禁された彼と同行者は、彼らの純朴にして調和の取れた諍いのない平和な暮らしに心洗われ、彼ら原住民の暮らしを破壊する文明の先触れ役の海軍や布教組織に対するメルヴィルの痛烈な批判はすこぶる歯切れがよいしまことに当を得ている。苦悩多く正義心に富む青年メルヴィルは、原住民たちと豊かな自然の中に生きる至福を実感している。タイピー族から脱出後、四年にわたる海の放浪暮らしの後に処女作「タイピー」を一八四五年に執筆、二十六歳だった。その六年後に「モービィ・ディック」が刊行されている。ヌクヒヴァ島での鮮烈な体験とその後の海での暮らしが、メルヴィルに強烈な印象を与えたことは、この事実からも容易に想像される。
いまでは大作家と見做されている彼も、生存中はほとんど無視され続け、個人的にも長男の自殺、自宅の焼失、次男の出奔のすえ客死と不幸続きだったが著作に専心、死後三十年を経て再評価され脚光を浴び不滅の名を残した。一八一九年生まれ、一八九一年没する。享年七十二歳。
なお、本書中に出て来る地名、人名は多様多彩、メルヴィルが言うには素晴らしい音の響きを持っているとのことだが、彼が触れているようにポリネシア語の変化は無限に近いうえに、島や部族ごとに独自の発展を見ているようで、メルヴィルが現に耳にした素晴らしい響きをせいぜい写し伝えるように努めたがはなはだ心許なく、ご容赦くださるようお願いする。加えて、原住民、蛮族、人食い、野蛮人などの用語が出て来るが、たとえば野蛮人の定義が間違っているのではないかと、メルヴィルは親愛の念を込めて原住民を擁護していることからもわかるように、差別意識など毛頭ないことは賢明な読者諸氏には自ずから明らかなことと思う。私もおなじ立場から訳をさせていただいたことを付記しておく。
二〇一一年秋 中山 善之