目次
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はじめに …… 6
第一章 助産所出産ドキュメント 一九九九年
1.プーちゃんのお産 一九九九年(助産所・都会にて)…… 13
初めての妊娠「女の先生に診てもらいたいの」…… 13
お産の場所の選択肢 …… 14
助産所について調べてみる「入院中の食事がとてもおいしかったって」…… 19
助産所での妊婦健診「ご主人、『立ち会う』なんて、そんな生やさしいものじゃありませんよ」…… 25
助産師とのお産の安全性 …… 31
助産所での妊婦健診「ヨーさんは他人事みたい」…… 36
お産「いきんでいいですよ」…… 40
産後「どこに寝るの?」…… 52
第二章 自宅出産ドキュメント 二〇〇一年・二〇〇五年
1.マーちゃんのお産 二〇〇一年(初めての自宅出産・僻地にて)…… 56
助産師を探す「そういう選択肢があるのだ」…… 56
準備不足のお産「脱脂綿はどこ?」…… 59
2.シーちゃんのお産 二〇〇五年(二度目の自宅出産・都会のマンションにて)…… 65
助産師を探す「やっぱり、口コミだよ」…… 65
ドイツのお産 …… 75
自宅での妊娠健診「にんじん、ごぼうをすってしぼったジュースを飲んでくださいね」…… 78
病院での妊婦健診「どうして病院で産まないの?」…… 85
妊産婦死亡の歴史 …… 91
アメリカのお産 …… 95
夫、医師にくいさがる「納得がいきません」…… 97
イギリスのお産 …… 102
お産「本当のおばあちゃんのようでした」…… 106
第三章 自宅出産ドキュメント 二〇〇七年・二〇一〇年
1.オーちゃんのお産 二〇〇七年(三度目の自宅出産、都会のマンションにて)…… 120
助産師を探す「あまりに遅すぎます!」…… 120
自宅での妊婦健診「その子にとっては間違いなくたった一回のお産です」…… 122
逆子騒動「針初めてですか」…… 128
お産「病院へ連れて行ってください」…… 135
産後「今は休むことが仕事」…… 146
2.流産 二〇一〇年 …… 153
流産「流産だってお産なんだよ」…… 153
医療とのつきあい方 …… 158
安産のためにできること …… 164
第四章 自宅出産を考えている人へ
ローリスクの妊婦の選択肢 …… 168
自宅出産の長所と短所 …… 170
我が家の自宅出産でよかったこと …… 172
自宅出産をするための条件 …… 176
おわりに …… 179
前書きなど
はじめに
ぼくがまだ、母のおなかの中にいるとき、父は現実から逃げだした。母が貯金しておいた出産費用を持ち出し、「青春に決別してくる」と言ってインドに旅立ってしまった。
インドにいる間に出産予定日がすぎた。もし生まれたら、母から日本航空カルカッタ支店付で手紙が届くことになっていた。何度も支店に足を運んだ父は、ある日、とうとうぼくの誕生を知らせる手紙を受け取った。
手紙を読んだあと、父はカルカッタの日本山妙法寺で断食行をし、帰国した。そのときに撮った写真を見たことがある。どてらの懐にぼくを入れて抱き、困ったような顔をしている。まだ「父」になりきっていない、一人の青年だ。
父は自分が親になることに向きあおうとしなかった。お産のときは、海の彼方にいた。この話を知ったとき、ぼくの誕生を見届けていてほしかったと思った。別にお産に立ち会ってもらわなくてもよいが、せめて近くにいて、はらはらしながら誕生を待ちわびていてほしかった。
その後、父は作家になった。そして、わが子の誕生のときにインドへ行っていたことを何度も書いたり、話したりした。自分は迷いを抱えた無頼の徒であったと語っていた。どんな体験も文学の肥やしになると考えていたのだろう。
だがぼくは、生まれるときに父がいなかったことと、それを美談のように語ることに反発を覚えていた。親として身勝手なことをしておきながら、なぜそれを売り物にするのか。
時は流れ、ぼくも親になろうとしていた。ぼくはわが子の誕生を見届けよう、お産に立ち会おうと考えた。妻の希望もあって、助産所や自宅でのお産となったが、ぼくにとってはそれも、父へのあてつけという側面があったのかもしれない。
ぼくはあなたとは違う。子の誕生に向きあうことによってだって、真摯な作品は生まれるのだということを証明したい。そんなことを考えていた。
もし、妻が「お産に立ち会ってほしくない」と言ってきたら、どうしただろうか。きっと、「自分が生まれるときに父はいなかった。それからずっとそのことを考えてきた。だから、自分の子の誕生をしかと見届けたい」と、妻を説得しただろう。
助産師とのお産は妻とぼくが選んだものである。その始まりは、ぼくにとっては自分の誕生のときにまでさかのぼることであった。
この本を書きあげようとしていたとき、父、立松和平が急逝した。
人はいずれ死んでしまう。
そういう当たり前のことを、日ごろは受けとめずに暮らしていたことを思い知らされた。お産という、生の現場のことを毎日考えていたところに、死というものを突きつけられた。
生と死はつながっている。
そのことを実感する機会ともなった。人は死んでしまうが、死ぬためには生まれてこなければならないのだ。誰にだって生まれてくるときと、死んでいくときとがある。お産を考えることと、死を考えることは、これまで思ってきたよりも、ずっと近しいことなのかもしれない。
それならば、お産についての本を書くことは、父の死に直面したぼくを支えてくれるものになるだろう。結局これは世のため人のためではなく、自分のために書いた本だったのだ。
ぼくは父のインド行きにずっと反発してきたが、母にとってはどうだったのか。考えてみると、快く父をインドへ送り出したのだということに気づいた。それならば夫婦にとっては、父が不在でも納得のいくお産だったと言えるはずだ。
父不在のお産に怒っていたのはぼくだけだった。その怒りのおかげで、ぼくはこれから述べるような豊かな体験をすることができたのだ。それならば、もういいじゃないか。父を許そう。
実際に母が納得していたことを示す証拠がある。次に載せるのは、カルカッタにいた父にあてて、ぼくの誕生を知らせるために母が書いた手紙である。この手紙を読むたびに、若き父と母の姿が目に浮かび、いつだってぼくは励まされるのだ。
まだ見ぬぼくのお父さんへ
はじめまして、お父さん。
お父さんがインドという遠いところへ旅にでかけているすきに、ぼくは、十一月十一日(土)秋晴れの朝八時五分にうまれました。予定日の六日前ですが、うまれてもかまわない一週間前以内でした。お母さんはうむとき、ちょっと苦しみもがいていたようでしたが、ぼくも頑張って、三〇〇〇gというまあまあの体重でした。お母さんは今、お産の苦しみなんてケロッと忘れるほど、ぼくのことかわいく思ってくれているらしい。お母さん、ぼくとも、とても元気ですから安心してください。
今日、お母さんはマッサージのひとにお乳をもんでもらってすごい痛いらしかったけど、ぼくのため必死に我慢してたくさんだそうとしていました。母親らしい気持ちになりつつあるようです。ぼくのことばかり考えてベッドに寝て、もしかするとお父さんのこと忘れがちかもしれませんよ。
それからお母さんは、お父さんの望んでいた男の子までちゃんとうんで、お父さんをこんなに喜ばせていいものかなんて、自分でもうれしいくせに思ったりもしてるんですって。
お父さんに会えるのを楽しみにしています。お母さんとぼくは一週間くらい病院にいて、あとお母さんの実家で、お父さんの帰りをふたりで仲良く、ぼくはおおきくなって待っています。
もっともっと報告したいことは山ほどあるけれど、お母さんに病院のベッドで代筆してもらっているので、疲れるとあとにいけないので、今度は退院してからお母さんに書いてもらうことにしますね。
ぼくのことは心配ないですから無理のない旅をつづけてください。
お母さんからもくれぐれもよろしくとのことです。