たかさきやま自然動物園探検隊長さんの書評 2023/05/20
神ないし絶対的存在への作者の希求たるや想像を絶するものがある。作者はなにか痛切な思いで救いを求めていた。それがなにかはわからない。しかし、その飢餓状態ともいうべき渇望を感じ取れない向きが、いくら本書に触れたところで、読後感を聴いてみれば、所詮、宇宙叙事詩などの美的修辞以上のものは得られないのは目に見えている。
そして、作者は神に辿り着けないことを既に認識していた。神は自身を助けてはくれないと観念していたのである。大学の哲学科に入ったのに程なく絶望して退学してしまうといった、悲惨とも我が儘とも云える作者自身の体験と、本書全体を貫く絶望感がそれを示している。本書に満ち満ちた絶望感、更には、難解を極めた筆致の何れもが、作者自身の救いがたい重く何物かがのし掛かるような思いを読者にそれと悟られまいとする作者の良心がそうさせたのではなかろうか。
中には、実際に作家に取材して、照れ屋の作者が、かけがいのない女性を果てしなく追い求めた作品であり、そのモデルに阿修羅王を位置付けたと、わかったようなわからんような釈明をされたのを真に受けて、作品そのものに直当たりして真正面から立ち向かうという評者として本来在るべき努力を惜しんで解説文を執筆しているとしか思われぬ様を見れば、その不勉強況んや欺瞞には、憤慨を覚えてしまう程なのだ。
かつて、理科・地学の教師となったのも、宇宙への飽くなき興味を背景としつつ、宇宙の果てというなにものかへ向けられた、凡人では想像力の及ばない絶望感と、神や絶対的存在というものを実感出来ない無念さを重ね合わせていたからこそなのだ。
作者の神への渇望、救いへの渇望は、執筆前から、満たされることはないと、確固たる貞観があったのだろう。だからこそ、神への案内役となるべきあらゆる宗教者や哲学者を作者のいわば分身として神を探索する営みを続けさせてみたものの、元々虚構に過ぎない神に到達出来るわけなどないのだ。
しかし、神の存在をかようなまでに虚構の存在と位置付けて決着を付けるとは、所謂、常識というものに囚われ、安住しがちな世間の人々の感性に対し挑戦的に過ぎてやしないか。余りにも大胆不敵で、蛮勇とすら謂える。
宗教の欺瞞を暗に指摘した作品ともいえよう。神の存在をかくも虚構で覆い尽くして描いた怪作は、恐らくほかにあるまい。
SF大作がかくも問題作であって良いのか。何れにせよ、人々の倫理観、道徳観、そして宗教観に厳しく迫る傑作ないし怪作であることだけは間違いない。
宇宙叙事詩なる美辞麗句でSF傑作と評するのはその場凌ぎの政治家答弁と変わらない。
2023.05.21
2023.06.08
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高崎山自然公園探検隊長さんの書評 2023/05/12 47いいね!
2023/05/15【改訂版】
冒頭の序章の記述が、地球誕生の頃の話が延々と続き、言葉を話す人間が登場するまでがとんでもなく長い。なかなかピアノの演奏が開始しないショパンのピアノ協奏曲第一番でもあるまいし、、、。
ふと見やると、上記【紹介】でも、序章の部分には全く触れていないではないか(苦笑)。かように、多くの人々が、冒頭42頁にも及ぶ序章を終えるまでに難儀して辟易し、人間が登場する次の章まで辿り着かないのが現状なのだ(たぶん)。
そこで、各方面から批判を受けることを承知の上、敢えて苦言を呈すれば、とんでもなく読者に不親切な(^^;)大作なのであります。しかし、それでは、折角の労作が勿体無いではありませんか。
そこで、以下の【補足説明入りあらすじ】を示しておくこととしたのだ。これは、光瀬龍フリークの方々からすると、余計なお世話かもしれないのだが、それはそれ、これはこれなのだ。いくら内容が充実していようとも、わかりにくいのはいかん。わかりやすさというものを評者は非常に大切なものと考えているのであります。淀川長治さんの映画解説なんてわかりやすくて面白かったよなあ。解説を聞いただけで、映画を見たような感じがしたものである。それは別として、以下進めましょう。
また、登場人物(登場生物というべきか)の序章から終章にいたるまでの【同一性】についても、単に、「彼」と詠んでいた○○がその後、□□として登場したり、同じ人物かそうでないかの区別が非常にわかりにくいのだ。
そこで、本書の解説を書いた資料を覗いても、本気で中身を読んで書いたものは、皆無ではないかとすら感じてしまうのだ。
まあ、とりあえず、補足説明つき解説をご覧ください。
~記~
地球創世記の地球が出来上がる経緯、地球上の生命誕生の仕組みを宇宙物理学・地球物理学的な知見をフルに生かして叙述する。三葉虫から、魚類(「魚族」と云う)と誕生して来た時系列に沿って、様々な生物が述べられた後、なんらかの生物が、今にも海から陸地に上がりそうな雰囲気を醸し出して序章は終わる。
因みに、18頁で生命の誕生について描かれている(序章11頁以降~22頁 )。
第一章 影絵の海 23頁~39頁
海の中の生物として、「かれ」という平仮名代名詞で呼ばれる知能を持った主人公らしき生物が初めて登場する(25頁)。人類と魚類の中間に位置する生物として描かれていると推察される。以後、筆者は、「半漁人」と呼びたいと思う。
ある日、なぜか海の中のあらゆる生物達が恐怖に怯えている異様な雰囲気の中にあって、躍動的で観察力に秀でた「かれ」は、地上に巨大な山脈のような近未来的な物体が移動している様を観察することとなる。しかし、それが何なのかは、「かれ」には理解不能であった。
「かれ」が海底のすみかに戻り、眠りに落ちた隙に、いつの間にか、最先端の科学技術の粋を集めたと思われる脳神経外科手術かなにか(施術)を受けている場面を描き、思わせ振りに第一章は終わる。(その後の章で、それは、サイボーグ化手術であったことが判明する)
人類がまだ誕生すらしていない有史以前の段階で、なぜ近未来的な技術が「かれ」に働きかけたのか、全く謎のまま第一章は終わり、読書は煙に巻かれることになる。
第二章 オリハルコン 40頁~123頁
本章に至って初めて、生の人間が登場する。哲学者プラトンがそれである。しかし、序章や第一章との脈絡は全く不明なままに物語が開始する。
プラトンは、神の怒りを買って一朝にして海の底に沈んだとされるアトランティス王国(49頁、57頁)についての記録を探す旅に出ていた。
一人の僭主による広大な地域の画一的経営より、狭い地域に多数の都市国家が乱立するポリス社会に理想国家のありようを観ていたが、アトランティス王国の滅亡はプラトンの理想に猜疑を齎すものであった。
また、プラトンはなぜか、かつてのアトランティス王国を自身の故郷のように感じていた(57頁)。
この記述は、あとへ続く物語の伏線であり、プラトンは前世において、アトランティス王国の国王の下で司政官を務めるオリオナエその人であったのだ。
プラトンは旅先で眠りに着いた時、自身がアトランティス王国の滅亡に、ほかならぬ司政官オリオナエとして立ち会った過去の経緯をまざまざと観せ付けられることになる(87頁以降)。
しかし、その辺りの叙述から、物語はやや異様な展開の趣を強めてくる。
ひとつは、国王の姿は奈良の大仏を思わせる巨大なものであり(90頁、91頁、113頁)、到底人間とは思えぬ描き方をされていること。しかも、アトランティス王国滅亡の直接の要因は、国王が命じた王国全体を民共々丸ごと引っ越すとの計画に臣民達が反対したことにあり、しかも、その引っ越し計画は、突然登場する「惑星開発委員会」の策定したものであり、それを天命ないし神の意として、国王が臣民らに押し付けようとしたのだとるなどの経緯である。
地球人類に科学を齎したのは、地球の外から現れたアトランティス王家の巨大な王族であり、端的には〝異星人〟が地球人類を支配して来た、しかも、神と崇められながらという構成なのである。これは、猿が人間に進化したとする進化論に対峙する宇宙人説とも呼ぶべき立場を踏襲したものであろうか。
アトランティス王国引っ越し計画に反対した臣民達は、王家すなわち惑星開発委員会の怒りを買い、海底というより作中では、宇宙の闇の底へ沈むことになるのである。
プラトンは、意識の深層に宿った、自らの前世、オリオナエであった当時の朧気な記憶に導かれ、〝宗主〟が待つであろうTOVATSUE集落を目指すのであった(~123頁)。
第三章 弥勒(みろく)
釈迦国の悉達多(しつだるた)太子が、貧窮に悩む庶民や外敵からの侵略危機といった国難にあってなお、庶民や妻子を置いてまで、梵天(ぼんてん)に会いに行くために四人の僧侶らと天界へ向けて旅立つのである。
梵天とは、【宇宙最高の原理】であり、広大無辺な宇宙をその手に観照する存在であり、万物流転の形相は全て天なるものの意志すなわち梵天王の意志なのである(135頁)。
しかし、民衆の不幸に直面するに付け、悉達多太子は、天の意志というものに、不審を抱いていた(137頁)。
だからこそ、梵天に会いにゆき、不審を払拭したいと考えているのである(137頁)。場合によっては、神を否定ないし拒否しなければらないと覚悟を決めている太子であった(137頁)。
しかし、辿り着いた先では、天上界(153 頁)が八万年もの長きにわたり破壊に瀕する状況を見せられることになる(143頁)。
その原因は、一方で、①宇宙空間の歪みにあるという、些かなりとも宇宙物理学的な知見がないと理解不能な領域へ持っていってしまう(144頁以下)。他方では、遂に太子が会うことが出来た梵天王の言葉として、②阿修羅王の天上界への侵略が原因だと謂わせる。しかも、阿修羅王こそ宇宙の悪の本質とまで謂わせている。
しかし、①宇宙物理学的な説明と、②神の世界における戦いとがどう結び付くのか、わからないので読者は混乱するのである。
太子は、梵天王の言葉によれば、悪の本質とされる阿修羅王に会うことが出来たが、阿修羅王からは、「五十六億七千万年後に人々を救うとされる弥勒に会え」と謂われる。
更には、「弥勒がまことの救いの神なら、その破壊の到来をこそ防ぐべきではないか」と誠に尤もな疑問を投げ掛けられるのだ(165頁)。言葉に詰まる太子であっ人物た。
阿修羅王は、自分の警告(この世界の荒廃は、世界の外部から齎されたものであること)を梵天王は聞こうとしないと謂う。
そして、梵天王は、【世界の外部のなにもの】からか、「阿修羅王こそが悪の本質である」との思考コントロール(洗脳)を受けているといい、太子はそれを直感的に真実だと理解するのであった(169頁)。
阿修羅王に案内されて、弥勒に会いに行った太子であったが、弥勒の座した彫像があっただけで、弥勒は実在しなかった。
阿修羅王に言わせると、人々が、弥勒が遠い未来に人類を救うと勝手に信じ込んだだけだという。弥勒の座像は、かつてこの世界を訪れ、この世界がおのれの領域にあることを宣言して去った異世界の住人をかたどったものに過ぎないのだという。
阿修羅王から弥勒の何たるかを聞かされて、途方に暮れた太子であった(187頁)。
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