紹介
本書は、音楽研究を大作曲家の楽譜研究や伝記読物といった旧弊から解放し、楽譜や音楽用語に頼らずに、さまざまな学問領域を横断しながら、音楽を文化としてとらえなおす試みである。収録された多彩な論考は、いずれも音楽を社会的活動として理解することから出発し、たがいに重なり補いあう概念のパッチワークを提示している。
第1部では音楽と文化・社会・歴史との関係を俯瞰的にとらえ、第2部では個別のテーマや概念を集中的に議論し、音楽研究の今後向かうべき方向を示す。
◎本書に登場するキーワード
人類学、社会学、生物学、民族誌、歴史記述、意味論、記号論、ポスト・モダニズム、アフォーダンス、アイデンティティ、セクシュアリティ、ジェンダー、テクスト、身体性、他者性、消費、植民地主義、人種主義、ディアスポラ、政治、産業、教育、民族問題etc.
目次
序 章 音楽研究と文化の思想[リチャード・ミドルトン]
I──音楽と文化
第1章 音楽と生物文化的進化[イアン・クロス]
……人はDNAゆえに歌うのか?
第2章 音楽学、人類学、歴史[ゲイリー・トムリンソン]
……音楽とうたは別物?
第3章 音楽と文化──断絶のヒストリオグラフィ[フィリップ・V. ボールマン]
……植民地主義と人種主義。西洋人はいかに音楽を記述してきたか。
第4章 音楽の比較、音楽学の比較[マーティン・クレイトン]
……異なる音楽は比較できるか?
第5章 音楽と社会的カテゴリー[ジョン・シェファード]
……音楽はどのくらい社会を映し出しているか?
第6章 音楽とその媒体──新しい音楽社会学に向けて[アントワーヌ・エニョン]
……バッハは現代音楽?
第7章 音楽と日常生活[サイモン・フリス]
……音楽がうるさいわけ。
第8章 音楽・文化・創造性[ジェイソン・トインビー]
……名作は天才が作るわけじゃない。
第9章 音楽と心理学[エリック・F. クラーク]
……アフォーダンス理論を音楽研究に生かす。
第10章 主観礼賛! 音楽・解釈学・歴史[ローレンス・クレイマー]
……西洋音楽を支えてきたのは音楽をめぐるおしゃべり?
第11章 歴史音楽学はまだ可能か?[ロブ・C. ウェグマン]
……音楽史の罪悪。
第12章 社会史と音楽史[トレヴァー・ハーバート]
……おどる国民、奏でる労働者。
II──さまざまな論点から
第13章 音楽の自律性再考[デイヴィッド・クラーク]
……不滅の名曲はありえないのだろうけど……。
第14章 テクスト分析か、厚い記述か?[ジェフ・トッド・ティトン]
……いかに他者の音楽を理解するか?
第15章 音楽、体験、そして情動の人類学[ルース・フィネガン]
……音楽の情動はそれぞれちがう。
第16章 音楽の素材、知覚、聴取[ニコラ・ディベン]
……音の認知は文化によって異なる。
第17章 パフォーマンスとしての音楽[ニコラス・クック]
……譜面は音楽じゃない、パフォームされたものが音楽だ。
第18章 ネズミと犬について──世紀末における音楽、ジェンダー、セクシュアリティ[イアン・ビドゥル]
……フランツ・カフカは音楽をどうとらえたか。
第19章 差異を糾弾する──アフリカ民族音楽研究批判[コフィ・アガウ]
……差異からとらえられてきたアフリカ音楽とその政治性。
第20章 名称がもたらす差異──アフリカン─アメリカン・ポピュラー音楽にかんする2つの事例[デイヴィッド・ブラケット]
……ポピュラー音楽におけるネーミングの力。
第21章 人々とは誰か?──音楽とポピュラーなるもの[リチャード・ミドルトン]
……国民の音楽という20世紀の夢。
第22章 音楽教育、文化資本、社会集団のアイデンティティ[ルーシー・グリーン]
……音楽教育は管理のツールか?
第23章 楽器のカルチュラル・スタディー[ケヴィン・ダウ]
……楽器は生き方をあらわす。
第24章 民族音楽学における「ディアスポラ」の運命[マーク・スロウビン]
……流れ者の音楽のもち方。
第25章 グローバリゼーションと世界音楽の政治学[マーティン・ストウクス]
……新自由主義下のワールド・ミュージック。
第26章 音楽と市場──現代世界の音楽経済学[デイヴ・レイン]
……なぜもうからないのに音楽家は減らないのか。
前書きなど
監訳者あとがき
本書はThe Cultural Study of Music(Routledge, 2003)の全訳です。本書全体のコンセプト、あるいは個々の章についての解題については、編者のミドルトンが序章で詳しく書いていますから、そちらにまかせることにします。この「あとがき」では、訳者の立場から若干の補足をさせていただきます。
まず、原著のタイトルは、“The Cultural Study of Music”です。しかし、この訳書のタイトルは『音楽のカルチュラル・スタディーズ』と複数形になっています。〈カルチュラル・スタディーズ〉とは何か、という定義はなかなか複雑で、いまとなってはなんとなくその雰囲気(反権威的でポスト・モダン風味)でのみ、まとまっているような感さえします。あえて筆者なりの言いかたが許されるなら、「いままでの研究からちょっと距離をとって、文化という視点から、ものごとを複眼的横断的にみなおす研究態度」ということになります。この学問は20世紀の後半にはじまったものですが、日本では「文化研究」とか「文化学」といった訳語ではなく、おおむね「カルチュラル・スタディーズ」と複数形がそのままカタカナでもちいられてきました。ちなみに英語圏でもcultural studyという単数形をもちいた書は少ないようです。本書の編者たちがわざわざ単数形を選んだのは、カルチュラル・スタディーズというものが、さまざまなものごとが複合した領域を対象とすることが多い(ゆえに複数形をとる)のに対し、ここでは〈音楽〉という単一の領域が対象になっているからでしょう。ただ、音楽のカルチュラル・スタディーズを日本ではじめて紹介するものとなるこの訳書においては、あえて日本での一般的な呼称である「カルチュラル・スタディーズ」を採用しました。
本書は、音楽の研究書としては、例外的に広い領域にかかわっています。たとえば生物学、歴史学、文化人類学、民族音楽学、音楽社会学、ポピュラー音楽研究、音楽心理学、哲学、社会史、ジェンダー研究、パフォーマンス研究、教育学、楽器学、経済学などです。原著が刊行された2003年という時点において、カルチュラル・スタディーズの視点から編まれた最前線の議論であり、執筆者はそれぞれの領域でもっとも旬な研究者といえる人たちばかりです。ミドルトンは、「序章」のなかですでに、本書の内容をアップデートすべきかもしれないと述べています。この訳書を刊行する2011年のいまとなっては、さらにそういえるかもしれません。しかしながら、筆者の感触では、この書の新鮮な刺激にとんだ魅力はいまだ衰えていないように思えます。そのことは、音楽の学問
研究における変革の遅さを示すという意味では、かならずしも喜ぶべきことでもないのかもしれませんが。
私たちは世紀末というものを通過してきました。19世紀末がどうであったのか想像するしかありませんが、20世紀末はともかくなにごともなくやりすごせたようにみえました。しかし、そこから10年ほどたったいま振りかえると、やはり世紀の変わりめが大きな転換点であったことに気づきます。本書は、その転換点を境に、明確になりはじめた音楽文化にたいする見方の全面的な転換を鮮明に示しています。その転換のポイントを一言でいいあらわすなら、〈脱西洋近代性〉ということになるでしょう。
いわゆる西洋音楽史は、もはや確立された知としてではなく、それじたいすでにひとつの文化現象として研究対象になりはじめています。モーツァルトやバッハなどはカノン(正典)とよばれ、その不思議な成立がどのように起こったのかが研究されはじめています。そういった西洋音楽中心の見方に対抗するものとして1960年代以後に民族音楽学が登場してきましたが、その後ろ盾となった文化人類学にたいする疑問と連動して、その有効性がすでに問われはじめています。美や感動が人類普遍のものでないことはもちろんですが、音楽による情動や音を知覚する様態も文化によって異なります。人の耳はそうとうに文化によって異なっているのです。ですから「音楽は人類の共通語」という表現には、これまで以上に西洋音楽のイデオロギー臭が露骨に感じられるようになりました。そうなると、西洋が生んだ音楽心理学なども、その認識の素朴さを隠すことはむずかしくなってきます。
筆者は、臨床音楽学を専門領域としていますが、これは簡単にいえば音楽療法という視点から音楽について考える領域です。音楽療法は20世紀の中葉からはじまり、しだいに普及発展してきたのですが、ここでも先ほど述べたことと同様に、世紀末のころからある反省が生まれはじめています。音楽療法ではそれまで、〈ヒトという生物体〉と〈音楽という刺激〉の関係のなかで、その方法や意味が、ある種、素朴に論じられてきたのですが、いまではそこに文化という要素の介入を認めざるをえなくなってきたのです。それが〈文化中心音楽療法〉とよばれる動きで、やはり20世紀末に議論が始まっています。
たとえば、アメリカでおこなわれている音楽療法をそのまま、たとえばどこかのアジアの国で実践しても意味は薄いだろうということは、誰にでも想像できそうなことです。しかし、こんなあたりまえな文化相対主義が提起されるまでに半世紀もかかったということは、本書の著者たちがいちように保守的だと指摘する音楽学の動向からみてさえ、異常なことといえるかもしれません。音楽療法というものが西洋近代の考え方から離れることが、いかに難しかったかを示す一例だと思います。このほかにも、西洋の伝統音楽を中心とする思想は、音楽療法のなかに随所にみつけることができます。さすがに、「それは変だ」と考える研究者が世界各地からぽつりぽつりと出てきました。
筆者はそういった研究者たちとともに、こういった状況にある音楽療法を西洋中心主義から脱却させ、もう少し広い視点から再構築できないものかと考え、その手がかりを音楽学にもとめたのですが、その世界もまた大きな変革のうねりのなかにあったというわけです。考えてみれば、学校音楽教育ではまだベートーヴェンやシューベルトのような音楽が人類の遺産であるかのごとく教えられていますし、音楽大学における専門教育も、ポピュラー音楽やワールド・ミュージックに門戸を開いたとはいえ、レッスン室から聞こえてくるレパートリーはあまり変わっていないようです。大学レヴェルの音楽学の研究でも、偉大な作曲家の個人史や作品の研究がなんの留保もなく続けられています。無謀にも本書の翻訳を思いついたのは、そのような状況に少々の「バタフライ効果」が生じることを期待してのことでした。
翻訳には筆者以外に、卜田隆嗣さん(19, 24, 25章)、田中慎一郎さん(7, 16, 21, 26章)、原真理子さん(5, 6, 12, 22章)、三宅博子さん(3, 14, 18, 20章)、の4名の研究者が加わり(上記以外の11編は若尾が担当)、すべての訳稿に筆者が最終的に手を入れています。
原著のなかに見つかった、訳者からみて明らかな誤りと思われる記述(言及している書名や発行年度、参照ページ数、あるいはCDタイトルなど)にかんしては、訳者側の判断でとくに注記せずに訂正しています。
本書に登場するさまざまな文献の邦訳については、可能なかぎり調べたつもりですが、なお遺漏があるかもしれません。また、本書中の引用にかんしては、できるだけそれら邦訳書の訳文を尊重しましたが、わかりやすくするために意図的に変えたところもあります。
筆者は、翻訳に悪戦苦闘しながら、本書の包括する学問的領域の広大さを痛感しました。力不足ゆえの問題も残るかもしれませんが、それについてはご指摘をいただければさいわいです。
本書の完成にあたって多大なご助力を賜った編集者の大谷仁さん、株式会社アルテスパブリッシング代表の木村元さんに謝意を表してあとがきを終わります。
2011年2月3日節分 吉田山麓にて