目次
第1週 入門する
開講にあたって/さまざま勧誘/楽な道はない/布教のルール/見分け方/退会する
第2週 祈る
祈り以前/現世利益/宮本武蔵の場合/祈らない宗教もある/みだりに祈らない
第3週 迷う
ユタに会う/ユタ論争/迷いの宗教/迷いはもうかる/決定論
第4週 堕ちる
大峰山で/恐怖・心配・不安/脅しは有効か/挫折と失敗/絶望の底から
第5周 変る
カフカを読む/人身受け難し/異次元の世界/ヒキガエルの場合/新鮮に見えてくる
第6週 救われる
「癒し系」の音楽/癒しと浄め/自分自身のまちがい/修行・生けにえ・寄付/すでに救われている/本願ぼこり
第7週 気づく
「疑う」から/覚の宗教/「不立文字」の世界/根源的覚醒/外に求めるな
第8週 浄土と神の国
宣長の仏教批判/浄土は西にあるか/死後か生前か/有形の「神の国」/感動の表現として/非神話化
第9週 建てる
ブータンにて/玉城先生の仏像/方便をいうこと/建神主義/「人間が神を創った」/さまざまな表現
第10週 むさぼるな
菜食主義の論理/肉食の是非/限りある生/多神教優越論/貧瞋癡/中道の生き方
第11週 殺すなかれ
十戒と五戒/ボンヘッファーの選択/「聖戦」はあるか/法句経の教え/良くて殺さぬにはあらず/戒と律
第12週 宗教理解の四段階
第一段階「迷う」/第二段階「気づく」/第三段階「建てる」/第4段階「還る」/往生と還相/大死一番/
付 章 宗教教育の可能性
公立学校で宗教は教えられるか/五つの分野/「畏敬の念」への疑問 /施無畏/「心のノート」について/孤独のレッスン/教育基本法を読み直す
あとがき
前書きなど
あとがき
新聞記者だったころ、新年の紙面で「浄土と神の国」という対談を企画しました。真宗大谷派の僧侶である坂東性純・元大谷大学教授と、プロテスタント神学の八木誠一・元東京工業大学教授がこう発言しています。
坂東 「ああ、阿弥陀さまのお慈悲は、この私にまで及んでいる」と感じることがある。この体験や感動が大事ですね。それをどう表すか。浄土思想は、阿弥陀とか無量寿とか、つまり、限りなきものと仮に名前をつけたが、ほかの名前でも構わない。だから体験が先で、名前が後。逆ではない。浄土も感動や宗教体験が先にある。
八木 浄土や神の国を神話的に実体化して考えると、現代人はそんなものはありゃしない、と思う。しかし、「神の支配」の体験は本来、だれもが持てるものです。そこを抜かして、いきなり、超越的な実在を信じなさい、なんていったって始まらない。
(朝日新聞東京本社版、一九九九年一月七日付夕刊「こころ」面)
そうなのだ、と合点がいきました。いつまでも「超越的な実在」などにこだわっているから、子どものような神観念から離れられないのです。頼ったり、すがったり、あげくには宗教がばかばかしくもなります。そうではなく、宗教の本質はまさに「感動」そのものなのです。そのことに気づくと、この世の中はまったく新しく、輝いても見えてくるでしょう。この宗教観を受け入れるなら、両先生がそうだったように、仏教とキリスト教は肝胆合い照らす仲になるかもしれません。イスラームの神秘主義など、ほかにも深いところで通じあえる教えがあるように思います。
そこのところを何とか理解していただきたく、本書では詩を多めに引用してみました。その深さを味わってみてください。ただ、そのために宗教哲学の方面が中心になり、宗教と倫理の関係については後半の二章だけとなりました。自殺、死刑廃止、安楽死や尊厳死、葬送、政治とのかかわりといった今日的な課題については、別の機会に取り上げたく思います。ただし、宗教教育の問題については、本書を執筆するに至った動機でもあり、以前に書いた文章に大幅な加筆・削除をして「付章」として掲載しています。
「宗教の教科書」といっても、中立、公平、無難にではなく、あくまでも私が生きてきた時代と個人の体験をもとに書いています。教室などで参考にする場合は、自分自身の挫折や失敗も含めて、「人生」を語っていただきたいと思います。刻々と変わる世界の動きに触れることも大切です。仏教でいう「応病与薬」で、つまり医者が個々の患者の病状や体力に応じて薬を処方するように、状況に応じて利用されるようお願いいたします。
私は、文献を研究する学者でも、寺院や教会に身を置く宗教家でもありません。祈りや坐禅や念仏が身についているわけでもありません。その代わり、新聞記者という立場で、宗教界を自分自身の目で偏りなく見てきたつもりです。どこの教団にもどこの宗派にも遠慮していませんから、その点だけは安心していただけると思います。・・・・