前書きなど
君達の身の回りに見つけやすい順番で幾つかの素手で闘う武道について、その本質的な技法をこの変わり種の物理学者が「楽して人を倒す」ことを目指してきた半生の中で得た物理学的観点から紹介していくことにしよう。しかも、その構成順序は物理学における力学的な解析を学ぶ伝統的な順番に従い、静力学から始めて並進運動についての動力学に至り、さらに回転運動についての動力学に及ぶという形を取る。幸いにも、柔道の三船久蔵十段の空気投げを取り上げ、その達人技を科学的に解明する中で中心的な枠組となるものが物理学における静力学の考え方となる。また、空手の原形を今に伝える琉球武術「本部御殿手(もとぶうどぅんで)」の上原清吉宗家による達人技の基本となっている動きの重要さを科学的に裏付けるものが並進動力学であり、少林寺拳法の宗道臣開祖の知られざる達人技までをも現代に蘇らせた山﨑博通八段が華麗な乱取りで見せる拳さばきの効果を理解するために必要となるのが回転動力学だ。
もちろん、日本にはこの他にも何人かの隠れた達人がいたことが知られている。中でも、健康スポーツとして広く普及している合気道の源流と考えられている、大東流合気柔術中興の祖武田惣角から受け継いだ「合気」と呼ばれる不思議な技術体系をさらに発展させた佐川幸義宗範は、達人中の達人、あるいは武の神人といわれてきた。『達人の科学』と銘打つからには、本来ならば佐川幸義宗範の達人技である「合気」を科学的に解明しなければならない。しかしながら、現代科学の基礎を与える物理学の諸原理を超えた現象と結論づける他ない技の数々を目の当たりにすれば、それが時期尚早であると考えるのは著者のみではないだろう。
そういうわけで、本書の中で展開される静力学的・動力学的な理解の適用限界の外に位置する「合気」と呼ばれる達人技については、最後のあとがきで若干触れるにとどめることにする。