紹介
◆読むこと、書くこと、そして書物の未来に向けて
かつてあらゆる書物が消滅し、電子情報に置き換えられる、と危惧された時期もありましたが、SF的空想にすぎないことも明らかになってきています。ただ、「メディアはメッセージ」だとすれば、デジタルメディアの進展とともに、「読書」という行為も以前の「サラブレッド」な読書とは変わってこざるをえないでしょう。スティグレールなどの「デジタル・スタディーズ」をも援用しつつ、「読むこと」がもともと持つハイブリッド(混淆)性を解き明かしていきます。さらに、1970年代からずっと書物のかたちをラディカルに問い、ブックデザイン界をリードしてきた杉浦康平氏に、書物と文字についての考えと実践活動をお訊きします。新時代のハイブリッドな「読書」から、新しい図書館計画、文字学などまで、「よむ/かく」をめぐる冒険的思索満載の特集です。
目次
ハイブリッド・リーディング 目次
刊行によせて 吉岡 洋
はじめに ハイブリッド・リーディング 阿部卓也
Ⅰ部 [実践編]ブックデザインをめぐって
一即二即多即一──東洋的ブックデザインを考える 杉浦康平
対談 メディア論的「必然」としての杉浦デザイン 杉浦康平×石田英敬(阿部卓也)
杉浦康平デザインの時代と技術 阿部卓也
Ⅱ部 [理論編]ハイブリッド・リーディングとデジタル・スタディーズ
新『人間知性新論』 〈本〉の記号論とは何か(抜粋) 石田英敬
器官学、薬方学、デジタル・スタディーズ ベルナール・スティグレール
極東における間メディア性の考古学試論
──人類学・記号論・認識論のいくつかの基本原理 キム・ソンド
「かくこと」をめぐって──記号・メディア・技術 西 兼志
Ⅲ部 [実験編]これからの「リーディング」をデザインする
デジタルアーカイブ時代の大学における「読書」の可能性
──東京大学新図書館計画における実験と実践
阿部卓也・谷島貫太・生貝直人・野網摩利子
もう一つのハイブリッド・リーディング
──ワークショップ「書かれぬものをも読む」をめぐって 水島久光
Ⅳ部 記号論の諸相
スーパーモダニティの修辞としての矢印
──そのパフォーマティヴィティはどこから来るのか? 伊藤未明
日本という言語空間における無意識のディスクール
──折口信夫の言語伝承論を手がかりに 岡安裕介
「意味」を獲得する方法としてのアブダクション──予期と驚きの視点から 佐古仁志
自己表象としての筆致──書くことと書かれたものへのフェティシズム 大久保美紀
資料 日本記号学会第三四回大会について
執筆者紹介
日本記号学会設立趣意書
装幀―阿部卓也
(シリーズ装幀原案 岡澤理奈)
前書きなど
ハイブリッド・リーディング はじめに
阿部卓也
本書の目的は、「よむ」ことと「かく」ことをめぐって、今日の世界で進行している巨大な地殻変動を読み解き、記号、文字、イメージ、観念、モノ、身体といった世界の基本単位の変容と再配置の行方を展望することである。書物の発明以来、さらにいえば文字の発明以来成立してきた読字・読書活動は、いまデジタルテクノロジーによって全面的に書き換えられつつある。そのような文字学の人類史的な転回を、理論と実践を往還する様々な視点から立体的に論じることこそ、本書の目指すものである。
本誌の特集全体を貫くキーワード、核となる概念は「ハイブリッド・リーディング」と「デジタル・スタディーズ」の二つである。そこで、まず最初にこの二つが何を問題としているのか、理論的な文脈を簡単に整理しておこう。
まず「ハイブリッド・リーディング」だが、これは大まかに「デジタル時代の読字・読書の活動、それによって読字・読書自体が変容するような読字・読書活動」を指している。「デジタル時代の読字・読書の活動」という定義からすると、単に電子書籍を読む行為、あるいは紙の書籍と電子の書籍が混在する場面での読書行為だけを指すと理解されてしまうかもしれない。だが「ハイブリッド・リーディング」という言葉で私たちが意味するのは、それよりもはるかに広い含意である。いま、デジタル技術が世界のあらゆる場面を覆いつくすなかで、「そもそも読むとは何か? 書くとは何か?」ということ自体がゆらぎ、問い直されようとしている。SNSや動画投稿サイトを考えてみればわかるように、私たちは文字に加えて画像、動画などをもはやまったく並列的に使って、日々の行為や思索を「かき留めて」、他人と共有している。いっぽう、デジタル化されたデータは、コンピュータが読み取り可能になるので、私たちの生み出す膨大なデータ、すなわち人間の行為や記憶の痕跡は、絶えず機械によってスキャンされ、人間の認知能力を圧倒的に超えた速度で分析、解釈されている。そのように「よみ」と「かき」の関係、人間と技術をめぐる関係が、デジタルに取り込まれることで複雑に融合し、再定義される事態こそを問おうとするのが「ハイブリッド・リーディング」である。
そして、そのような問題を理解するうえでのひとつの原理となるのが、本書の二つ目のキーワードであり、技術哲学者ベルナール・スティグレールによって提唱されている「デジタル・スタディーズ」の理論(または知的潮流の提唱運動)である。その詳細は、本書所収のスティグレール本人による論考を参照されたいが、そこで精緻な論理の積み上げを通じて主張されているのは、「歴史上ずっと、すべての知は、テクノロジーなしでは存在できない」という根本命題だ。先史人類が直立歩行し、洞窟に何らかの「しるし」を引っ掻いていたような時代から、われわれは痕跡や図像、文字といった記号を使う技術を発達させ続けてきた。その目的は、あたかもコンピュータが長期保存すべきデータを内臓のメインメモリではなく外付けのストレージにストアさせておくように、人間の記憶を脳ではなく人工物に外在化させることである(スティグレールの言う「第三次過去把持」の問題)。そして、そのような記憶の技術、よみ/かきのテクノロジーこそが、人間の個体を超えた社会的・集団的な記憶の蓄積を可能にし、未来への構想力を生み出し、論理や理性、知識、学問といったものを可能にしてきた。さらにいえば、私たちが自分の心や精神とみなしているものも、決して一人ひとりの生物的な脳の中だけで完結しているわけではなく、メディアを通じて他者や社会と繋がり続けることではじめて成立している。つまり、そもそも人間という概念は、最初から「生身の生物としてのヒト」と「テクノロジー」の二つのセットなのである。したがって、人間社会の基盤をなす技術がデジタルにシフトするということは、あらゆる知のあり方や、人間という概念そのものが変容することを意味している。だからこそ、学問や人文知も根本的に再定義されなくてはならないという主張が、「デジタル・スタディーズ」である。
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以上の見取り図を踏まえたうえで、本書の構成を紹介していこう。第Ⅰ部(実践編)では、ブックデザインの世界的な泰斗である杉浦康平を迎え、書物とはそもそもいかなるメディア(だったの)かという問題を振り返って考察する。まずは杉浦自身が、一九七〇年代から八〇年代を中心におこなってきた造本の実例を豊富な図版とともに解説し、また自らの作品づくりに通底する思想を語る。それは、対極にある異質なものを溶けあわせて並存させる「即」という東洋的概念である。続く杉浦と石田英敬の対談では、杉浦の思想や言葉と記号論的・メディア論な問題系との重ね合わせが試みられる。その後の阿部論文では、杉浦の時代における書物とデザインの質的飛躍の意義について、光学テクノロジーの進展と、それを前提にした産業構造の確立という技術史的視点から論じる。
第Ⅱ部(理論編)では、「ハイブリッド・リーディング」や「デジタル・スタディーズ」概念と関連させて、四人の理論家が原理的な問題の見取り図を提出する。まず石田は、フィクション、諧謔、修辞といった「文字による」アクロバットを駆使しながら、デジタル時代における書物の成立条件を問う。最近は誰も本を読まなくなった、という俗流の嘆きに反して、われわれはいまや本を読むことしかしていない、本に支配された世界を生きているという世界観の逆転を起点にして、図書館論、メディアアート論、WWW論を横断する「〈本〉の記号論」が論じられる。
続いてベルナール・スティグレールは、すでに紹介した「デジタル・スタディーズ」の研究プログラムとその意義について、「器官学」と「薬方学」の理論的系譜を補助線にしながら展望を述べる。またそのようなプログラムは、実験やプロタイプ制作を通じてパフォーマティヴに実践されなくてはならないと強く訴える。
いっぽうキム・ソンドの論文では、「漢字」と「書」という書記体系に着目し、東洋を起点にエクリチュール概念そのものを捉え返すことが試みられる。デリダやルロワ=グーランを参照しながら、アジア、とりわけ「漢字文明の三つの国」(中国、韓国、日本)における文字や書物文化の特色を、文字とグラフィックの相互浸透、「見ること」と「読むこと」の根源的な近さや間メディア性にあると位置づけ、認識論・記号論・考古学という視点を繋いで、文字をめぐる統合的な問題系の構築が目指される。
第Ⅱ部の最後となる西兼志の論考では、文字を、話し言葉の代理表象ではなく、それ自体固有なメディアないし技術であるという視点から捉えた、「かくこと」の問題が主題となる。西は、まずダニエル・ブーニューの「記号のピラミッド」における指標性・接触性と、スティグレールの「文字化」および「正―定立」の議論を参照し、文字のメディア学・技術論的なステータスを整理する。そして、スティグレールによる「図式機能」の議論を、より動的・プロセス的な概念としての「ハビトゥス」論の系譜と接続することで、文字や「かくこと」という身振りの問題を、技術―論理の観点から、より精密に論じようとする。
続く第Ⅲ部(実験編)では、第Ⅰ部、第Ⅱ部で述べられたような理論や思想を踏まえたうえで、私たちがテクノロジーに対してどのように向き合うべきかを問うたデザイン制作やワークショップを、二本のエッセイで紹介する。あらゆるテクノロジーは、人間の能力を広げてくれる人工器官であると同時に、人間を縮こまらせるものでもある。メモ帳が、人間の記憶力を増大させると同時に、脳だけで記憶する力を弱らせるかもしれないように、技術はつねに原理的に薬にも毒にもなるものである(スティグレールの言う「薬方学」の問題)。だからこそ、人類の活動の基盤がデジタルという新しい記号技術へと移行しつつある今、私たちは、それが人間の記憶、知、意味生活、社会を破壊するような方向にではなく、豊かに伸ばしていくような形で使われる可能性を模索しなくてはならない。そのために、記号技術をブリコラージュし、使い方を提案し、社会における意味を作り出していくような実践活動こそが、語義本来の意味でのデザインである。
そのような問題意識のもと、まず、阿部と谷島貫太の報告では、東京大学の「新図書館計画」の一環としておこなわれた、「よみ」を支援/拡張するデジタル環境設計の実証実験や、大学図書館を舞台にして実施された企画展示を報告する。それは、知のロジスティクスを担う大学図書館の活動を、テクノロジー環境の変容のなかでいかに再定義するかについて試行したものである。
続く水島久光のエッセイでは、古賀稔章と氏原茂将によって企画・実施された「集団的な読書」のワークショップをレポートする。あえてデジタルな機器を排除したアナログな空間で、アーキビストやキュレーターたちが会場参加者と車座になって坐り、本の一節をめぐって連想を紡ぎ、別の本へとゆるやかに話題を移行させていく。そのようなメディア・パフォーマンスを通じて、水島たちが試みたのは、本が媒介してきた「よみ」の豊かさと、読書行為が根源的に内在するハイブリッド性を明るみに出すことであった。
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本書は、二〇一四年五月二十四日(土)と二五日(日)の二日間、東京大学駒場キャンパスを会場におこなわれた日本記号学会の第三四回大会「ハイブリッド・リーディング―紙と電子の融合がもたらす〈新しい文字学〉の地平」を書籍化したものである。実行委員長は石田英敬、実行委員として水島久光、西兼志、阿部卓也、谷島貫太が企画・運営を担当した。書籍化にあたって、内容を大幅に拡充している。
大会がおこなわれた二〇一四年から本書刊行までの二年間は、そのまま〈超―グーテンベルク〉状況(石田)が進展し、いよいよ徹底化していくプロセスでもあった。スマートフォンが急速に普及し、一四年末の総務省調査では世帯保有率六五パーセント(二〇代では九五パーセント)に迫るいっぽう、ディープラーニングに基づく第三世代のAIが商用利用の段階に入り、ビッグデータの活用と結合することで、機械の「よみ」は人々の日常生活をすでに基底で支えつつある。同時にヘッドマウント型VRシステムやウェアラブル・デバイス、ARコンテンツやプロジェクション・マッピングなどの技術的ブレイクスルーや低廉化にともなって、今やわれわれの視界は丸ごと情報紙面で覆い尽され、現実世界のあらゆる間隙が本の頁となるような世界の完成が間近に迫っている。「ハイブリッド・リーディング」は、ますますアクチュアリティを増し、より切迫した未解決の「記号論的問い」として、われわれの眼前に立ちはだかっているのである。