目次
はじめに
トルコの地図
I 古代トルコを掘る/撮る
第1章 東西文明の接点――国境があって国境のないアナトリア高原
第2章 古代都市の遺跡群――考古学者だけが世界的発見をしているわけではない
第3章 アナトリア文明博物館から――土着宗教と一神教にみるアナトリア
【コラム1】アナトリア高原の遺跡と発掘者
第4章 民族のアイデンティティーを求めて――アタテュルクとトルコ歴史協会
第5章 シュリーマンの幻想とオズギュッチの直感――「プリアモスの財宝」と世界最古の商業都市
第6章 和平条約と粘土板が物語ること――ヒッタイト帝国の都ボアズキョイ
【コラム2】ヒッタイトの造形美術
【コラム3】カマン・カレホユック遺跡
第7章 リュディア王国――ヘロドトス『歴史』が残した世界
第8章 アレクサンドロス大王――アジア制覇の足跡をたずねて
II オスマン帝国の興隆
第9章 神々の世界から、一神教の世界へ――アナトリアのキリスト教化とイスラム化
第10章 コンスタンティノープルの征服――東地中海世界、再編成へ
第11章 「トルコ」支配に抗したバルカンの英雄たち――史実と伝説のはざまで
第12章 レオナルド・ダ・ヴィンチの金角湾架橋プロジェクト――ルネサンス芸術家の「パトロン」? オスマン宮廷
【コラム4】トルコの伝統芸術を守った二人の恩人
第13章 「壮麗王」スレイマン1世が残したもの――不動の帝国への礎
第14章 華麗な宮廷文学の世界――イラン文化へのあこがれ
第15章 トルコ・イスラム美術の性格――トルコ美術の多様性
【コラム5】語り継ぐ遊牧民の技――ヤージュ・ベディルのじゅうたん
第16章 メヴレヴィー教団――オスマン帝国の音楽発展に果たした役割
【コラム6】オスマン帝国の軍楽隊――メフテル
第17章 イスタンブルのモスク――ビザンツ文化の遺産を受け継いで
第18章 イスタンブルからヨーロッパへ伝わったコーヒーハウス文化――モリエールはなぜ『町人貴族』を書いたか?
第19章 オスマン帝国とユダヤ教徒――スペインから追放されたユダヤ教徒
III 帝国の改革と社会の変容
第20章 西洋化の嚆矢チューリップ時代――国情を反映した花
第21章 小説『モンテクリスト伯』のモデルは誰か?――18~19世紀前半のオスマン帝国における地方勢力の台頭
第22章 異教徒のスルタン――帝国の改革と東方問題の発生
第23章 サライェヴォ事件への道――柔軟な共存が外から引き裂かれて
第24章 世紀末イスタンブルの歌姫たち――アルメニア人問題の陰で
第25章 エルトゥールル号事件――山田寅次郎と国交樹立
【コラム7】敗軍の将は名を残さず
第26章 トルコの任侠無頼エフェ、ゼイベキたち――「近代化」の割を食った人びと
第27章 「国父」アタテュルク――いまなお「永遠なる」指導者
第28章 世界最古の文明を築いたトルコ人!――国民国家統合のイデオロギー
IV 生活と文化、多彩な系譜
第29章 トルコ人の価値観――人と社会の底流にあるイスラム
第30章 イスラムと食文化――しかし、酒も飲める
第31章 実践的、自薦的食べ物ガイド――美食の国を楽しむ方法
第32章 屋根付市場グランドバザール――世界の物産が集う場所
第33章 生活の中の音楽――人びとの歌、トルコ民謡
第34章 トルコに西洋音楽は根づいたか――現代トルコの西洋音楽事情
【コラム8】現代トルコの演奏家――海外で活躍するアーティストたち
第35章 トルコ文学の多彩な系譜――ノーベル文学賞から語り物まで
第36章 「ケナル・マハレ」の生活――都市と農村のはざまで
第37章 アレヴィー――変貌する「宗教的」マイノリティ
第38章 トルコにおけるエスニック・グループ――クルド人を中心に
第39章 スカーフを被る女性、被らない女性――トルコのジレンマ
V 激動の政治経済と国際関係
第40章 トルコでのビジネス事情――日系企業ビジネスマンの観点から
【コラム9】もてなし好きで見栄っ張りなトルコ人
第41章 トルコ経済、激変の10年――リスク大国からの変貌
第42章 トルコ経済のしくみ――財閥主導の幅広い産業構造
第43章 トルコ現代政治の流れをつかむ――中東の民主化を考えるために
第44章 国家の規範としての世俗主義と絶対不可分――絶対の原則にも変化の波
第45章 公正・発展党政権のいまを読む――「穏健なイスラム」は成り立つか?
【コラム10】one minuite! one minuite!
第46章 強力な軍と政治――イスラム主義への最後の抵抗勢力
第47章 トルコのマスメディア――言論の自由とタブーのはざまで
第48章 国際関係――未完のEU加盟
第49章 エルドアン政権のEUへのスタンス――もはや「憧れ」はない
第50章 ヨーロッパで出会うトルコ人――トルコ人のヨーロッパ
第51章 トルコとアフガニスタン復興――その意外で深い関係
第52章 日本とトルコ――21世紀の新たな友好への展望
【コラム11】 在日トルコ人からみた日本―トルコ人にトルコを語る国
第53章 東日本大震災と在日トルコ人による支援――被災時に強まる両国民の絆
おわりに――「文明の十字路」のいま
「トルコ」をもっと知るための参考文献
前書きなど
おわりに――「文明の十字路」のいま
トルコという国を表現するとき、よく使われるのが「文明の十字路」という言葉である。地理的にみれば、たしかに国土の大半がアジア大陸のアナトリア半島にあり、西の一部がヨーロッパ大陸に属している。最大の都市、イスタンブルは、市の半分がヨーロッパ側、半分がアジア側と、ふたつの大陸にまたがっている。こんな都市は世界じゅうにほかにない。
「文明の十字路」に位置したことは、トルコ共和国という国と社会に決定的な意味を持っている。地理的な位置だけでなく、文化、社会的な規範、立法、行政、司法、そして教育の制度にいたるまで、「十字路」に位置してしまったことが、一方では実に豊かさをもたらし、他方では鋭い対立を生み出してきた。トルコとは、実に「悩ましい」国である。
(…中略…)
トルコがいまの共和国として独立するとき、トルコ人以外に「民族」の独立を志向したのはトルコ人とアルメニア人だった。クルド人も独立を志向したが、部族長ごとに民族集団が分かれていてトルコ人のような統率がとれなかったし、アルメニア人のように資金力をもたず外国との連携もとれなかった。
結果的に、トルコは、ズタズタに分割された前身のオスマン帝国の国土を部分的に回復して、いまのアナトリア半島+ヨーロッパ側の領土を確定させた。ナショナリズムを確立する点では優れていたアルメニア人は、ロシア革命のために不幸にしてロシアの後ろ盾を失い、フランスとアメリカも目立った支援をしなかった。そして、第一次大戦のさなかに大量にシリア側に追放され、多くの命が失われることになった。
クルド人たちは、結果としてトルコ、イラク、イラン、シリアなどの国に分かれて暮らすことになった。クルドという民族の国家は、実現しなかった。そのことでトルコを批判するのは、まったくの筋違いである。第一次大戦の当時、中東地域は、イギリスやフランスによって、都合よく分割されていった。地中海東岸のアラブ地域は、オスマン帝国と戦ってくれたらアラブ王国をつくってやろうというイギリスに騙された。イギリスは、その陰でフランスと中東を分割するサイクス・ピコ協定(1916年)を交わしていて、レバノンやシリアを影響下におさめた。パレスティナには、ヨーロッパで迫害されてきたユダヤ人に「民族のふるさと」をつくってあげようというイギリス外相バルフォアの画策でユダヤ人たちが入植し、パレスティナ問題の発端をつくった。
トルコは、第一次大戦でドイツ側について敗れたため、セーブル条約(1920年)で領土を切り刻まれることになった。イスタンブルは列強の共同管理、エーゲ海地方のイズミルはギリシアに割譲、地中海の風光明媚なあたりはイタリアの分け前、シリア国境に近くアルメニア人やアラブ人が住んでいたキリキア地方にはフランス軍が上陸して支配した。
当時のギリシアは、400年以上にわたるオスマン帝国の支配から独立したことをきっかけに弱体化していたトルコを侵略し、アナトリア半島の深くまで軍を進めた。もちろん、ギリシア単独の意志ではなく、イギリスが、面倒なことをギリシアにさせた面もある。だが、このアナトリア侵攻は、トルコ・ナショナリストの激しい抵抗にあい失敗した。
ムスタファ・ケマル(後に父なるトルコ人を意味するアタテュルクの名を大国民議会から贈られたトルコ共和国初代大統領。建国の父)らが率いた兵士、農民、市民たちは、ギリシア軍を徐々に追撃し、ついにアナトリアから外国勢力を撤退させた(1922年9月9日)。
この建国の死闘は、後に神話化されていく。トルコは、それまでの多民族・多文化のイスラム帝国から、トルコ民族の国、つまり、たいへん強固な国民国家の枠組みという鎧をまとうことになったのである。建国の後、クルド問題やアルメニア問題が、なんども浮上していったのは、「トルコはトルコ民族の国なのだ」という鎧のためである。
しかし、侵略してきたイギリス、フランス、ギリシア、イタリア、そして侵略を後押しした帝政時代のロシアとの、文字通り死闘の歴史なくして、トルコ共和国の建国はなかった。侵略者との戦いのなかで、トルコ人、アルメニア人、クルド人、ギリシア人など、オスマン帝国領内に暮らしていた人々は、たいへんな犠牲を強いられた。
外から見て、トルコが少数民族を抑圧したということは可能だが、それを主張するなら、第一次大戦とそれ以前の中東分割の歴史を冷静に見つめ直さなければならない。一方的に、ある民族の主張を現代に蘇らせることは、陰で中東を分割し支配しようとした当時の大国が「していたこと」を隠蔽する結果になる。「文明の十字路」としてのトルコを理解するためには、歴史の層位が、たいへん複雑に重なり合っていることを正確に理解することが必要である。
イラクからの米軍撤退、アフガニスタンでの治安活動、パレスティナとイスラエルの仲介など、中東をめぐる最重要課題にトルコの貢献は欠かせない。ここでも、トルコは「文明の十字路」として独自の仲介能力を発揮しようとしている。何ができるかは、今後を見ないとなんともいえないが、少なくとも、西欧文明とイスラム文明の交錯する地、キリスト教、ユダヤ教、そしてイスラムが共存する地としてのトルコは、21世紀を迎えて、ますます鍵を握る存在となりつつある。