目次
[巻頭言]教えと学びの交響する教室へ(竹内 常一)
まえがき
書くことで自分と他者とを結ぶ──「国語通信」と「聞き書き」を中心に(神林 桂一)
【コラム】自分史に取り組む(山口 直之)
ことば・教育・文化・社会(札埜 和男)
【コラム】実感に寄り添う言葉に出会うとき(竹島 由美子)
『夜の水泳』の読みの授業(谷 峰夫)
【コラム】「カンケイなさそうなもの」を「切実なもの」に(齋藤 知也)
「参加」と「尊重」の書きことばを求めて(今村 梅子)
[解説]「国語」の授業を開く(竹内 常一)
前書きなど
国語の巻 まえがき
『授業づくりで変える高校の教室』と名づけられている本シリーズは、こんにちの高校が直面している二重・三重の「教育困難」にどう取り組むかを意識して編集されています。
一般的に「教育困難」ということばは、高校段階の教育に応ずることができない、また応ずることを拒否している生徒たちのために、教育をなりたたせることができない事態をさすものとしてつかわれています。
しかし、本シリーズは、既存の高校教育を前提にし、それに応じない生徒たちの存在に「教育困難」の責任を一方的におしつけるものではありません。「教育困難」が選抜システムとしての高校と大衆化した生徒たちとのズレから生じていることを考えると、既存の高校教育のあり方がなによりも問われなければなりません。
いま、このような「教育困難」の状況を「国語(科)教育」にそくしてみると、それは教師のことばと生徒のことばとが異言語にちかいものとなり、授業の内においても外においても両者のあいだに対話もコミュニケーションもなりたたないほど深刻なものとなっています。
もともと教えるものと学ぶもののことばとのあいだには、大きな溝があることは学校の常識です。そこでは、教師が「知識のためのことば」「書きことば」「学校のことば」「標準語」「国家語」の側にあり、生徒たちは「生活に密着したことば」「話しことば」「地方のことば」「母語」の側にあります。だから、国語(科)教育の目的は後者の系のことばを放棄させ、前者の系のことばに帰属することを生徒たちに強要するところにあるのです。
いまも国語(科)教育はこれを目的にしていることに変わりありませんが、それをめぐる状況はかつてと違ったものとなっています。その状況とは、ひとつは、生徒たちが「生活に密着したことば」を失い、「サブカルチュアのことば」「メディアのことば」「市場のことば」「エレクトロニスクのことば」に呑み込まれるようになったということです。
いまひとつは、生徒たちが「メディアのことば」「市場のことば」に走り、「学校のことば」「国のことば」に背をむけるようになっているというか、前者のことばをバックにして後者のことばを攻撃するようになっているということです。ここに、教師と生徒のあいだにコミュニケーションがなりたたない理由があるのです。
しかし、このような状況がひろがっているからといって、生徒たちが「市場のことば」のなかに「自分のことば」「自分たちのことば」を見出したかというと、そうではありません。生徒たちはそれらのことばにとらわれ、それらのことばが描くニセの世界に吊り上げられることはあっても、「自分のことば」「自分たちのことば」で自分たちの生きる世界を描きあげることができないでいます。
いいかえれば、このことは生徒たちが公共圏をつくりだす「市民のことば」をもつことができないでいるということです。ですが、これは生徒たちだけの問題ではなく、おとなをふくむすべての人たちの問題です。「国家のことば」や「市場のことば」に対抗する「市民のことば」をわたしたちが手にしていないという問題なのです。
このようにみてくると、「国語(科)教育」は、(1)既存のことばに取り囲まれながらも「自分ことば」「自分たちのことば」を探し求めている生徒たちの試みをはげますこと、(2)教師と生徒、生徒と生徒がことばを交わしながら「授業空間」をひとつの「公共圏」にしていくこと、(3)そのなかで「国家語」「企業語」に代わる「市民のことば」をつくりだしていくことを課題としなければならないでしょう。このことを抜きにして、「国語」という制度そのものから派生してくる「教育困難」を超えていくことができないでしょう。
本巻はこのような問題意識にたって編集されています。実践記録ならびにコラムを寄稿してくださった方々にこのことを確認していただいたわけではありませんが、少なくとも「国語(科)教育」につきまとう「教育困難」を超えていくためには、制度としての「国語科」を問う必要があるという問題意識だけは共有することができたと考えています。
最後に、難産をきわめた本巻の刊行を引き受けてくださった明石書店に感謝の意を表します。
竹内 常一