目次
はじめに
序章
第一節 本書の目的とその論点
一 本書の目的
二 貨幣の人類学
三 アフリカ都市人類学
第二節 調査地と調査の視点
一 カメルーン共和国のなりたち
二 政治危機と経済危機
三 バミレケ
四 バミレケのダイナミズム
第三節 調査概要と本書の構成
一 調査概要
二 本書の構成
第一章 バミレケ首長制社会からの移住
第一節 バミレケ首長制社会
一 バミレケ・ランドの生活
二 首長
三 尊称とリネージ
四 貴族
第二節 移住要因とその結果
一 移住の始まり
二 農民から企業家へ
三 バミレケ・ランドにおける商人
第二章 ヤウンデへの移住と都市空間
第一節 都市のバミレケ化
一 ヤウンデの都市化
二 個人の移住軌跡
三 「土着民」の悲劇
第二節 「よそ者」としての都市生活
一 エスニック・グループと居住
二 カルチェとは何か
三 ヤウンデの首都性
四 バミレケであることの政治性
第三章 商売の経験
第一節 独立するプロセス
一 商売の多様性
二 子どもへの商人教育
三 公教育と子ども時代の商売経験
四 賃労働の経験
第二節 下積み生活としての小規模自営業
一 デブルイエ
二 時間がカネを生む
三 上昇志向
第三節 成功するということ
一 成功者の軌跡
二 成功者を取り巻く妬み
第四節 「バミレケ」をめぐる言説
一 バミレケが語るバミレケ性
二 他のエスニック・グループが語るバミレケ性
第四章 貨幣の意味を変える貯蓄法
第一節 バミレケの「伝統」としてのトンチン
一 トンチンとは何か
二 バミレケのトンチンの起源
第二節 同郷会
一 同郷会とは
二 集会所
三 ケナーダ
四 組織の活動
五 トンチンの重要性
第三節 村の組織と都市の組織
一 村の組織の概要
二 都市の組織の概要
三 メンバーシップの比較
四 組織の活動の比較
五 村のタブーとトンチン
六 トンチンにおける貨幣の意味
第五章 都市居住者の生み出す「故郷」
第一節 死者祭宴にみられる消費
一 死者祭宴の重要性
二 死者祭宴のための出費
三 死者祭宴の華美さ
第二節 都市居住者が建てる村の家
一 村の家とその貸し借り
二 埋葬の場か余生の場か
三 村の家の持つ意味
第三節 新貴族とエリート
一 称号授与の決まり
二 カネで買う貴族の称号
三 エリートと貴族
第四節 ローカリティーの生産
一 リネージ長会議の変化
二 土地の商品化
三 「故郷」というローカリティー
四 「故郷」をめぐる都市居住者内の争い
終章
第一節 まとめ
一 稼ぐ
二 貯蓄する
三 投資する
第二節 考察
一 貨幣
二 都市=村落関係
三 バミレケ研究
四 今後の課題と展望
あとがき
引用文献
索引
前書きなど
はじめに 本書は、アフリカ都市での現地調査(フィールドワーク)にもとづく民族誌である。アフリカ都市に暮らすひとびとが、どのように生活の基盤をたて、人間関係をつくり、故郷との関係を築くのか、そして国家政治や世界経済の流れにどのように対応しているのかを、とくに貨幣に焦点をあてながら明らかにする。 アフリカ都市といっても、たとえばそこで学校に通う子どもたちや、露天商の女性、雑貨店の主人がどのような生活をおくっているかについては、ほとんど知る機会がない。カラフルなビーズで身を飾ったマサイのひとびとや、狩猟をする「ブッシュマン」のひとびとの生活とは違って、アフリカ都市に暮らすひとびとの生活は、めったにメディアにはのらないからである。しかし、アフリカ中西部に位置するカメルーン共和国の首都ヤウンデでのべ三年暮らした筆者は、アフリカ都市の生活にも大きな魅力が備わっていると感じている。 アフリカは多様である。サハラ以南のアフリカ、いわゆるブラックアフリカだけに限っても、気候や風土、人、文化には多様性がある。アフリカ都市も同様に、長い時間をかけて人的・物的交流によって成長してきた都市や、植民地化によって短期間に建設された都市など、さまざまである。そのためアフリカ都市とひとくくりにすることは難しいが、その生活には共通性も見える。たとえば人間の距離の近さである。日本に暮らすあるアフリカ人は、日本の都市とアフリカの都市との違いについてこう言う。「バスや電車のなかで乗り合わせた客と、読んでいる新聞を交換するのがアフリカ、しないのが日本だ」。新聞を見知らぬ人と交換することは、日本の都会ではまずないだろう。アフリカの都市でそれが可能となるのは、人と人とをつなぐ回路が存在するからであり、その回路を作り、維持しているのは、その都市に暮らすひとびと一人ひとりである。 アフリカ都市が希薄な人間関係に浸食されていないのは、ひとびとが都市に暮らしつつも、村社会、「伝統」社会を生きているからだと思われるかもしれない。アフリカも近代化や都市化がさらに進めば変わっていくだろう、と。しかし、アフリカも日本と同程度に近代の一部であり(それは必ずしも経済発展とイコールではない)、都市化も進んでいる。つまり彼らはあえて、日本とは異なる都市を創り上げているといえる。アフリカ都市の住人が、見知らぬ人と積極的に関わろうとするのは、都市に暮らしているからこそ、必要とされる知恵である。自分の生活の安定や向上に役立つ出会いは、都市のどこに転がっているかわからない。人間関係のネットワークが広がれば、それだけ多くの情報やチャンスが得られる。 しかし、アフリカ都市の人間関係の濃密さは、このような「打算」だけに裏打ちされるわけではない。道端でバナナを売る馴染みのおばさんに、いつも一言、声をかける。下校中の小学生に、「しっかり勉強しろよ」とひやかす。乗合タクシーで隣のおじさんが語る不幸な身上話を聞き、一緒に嘆く。そこには、同じ都市に暮らす者同士の連帯感がある。 では、アフリカ都市で生きるとは、どのようなことなのであろうか。「生活するのは困難だ。カネ(を稼ぐこと)は困難だ(La vie est dure, l'argent est dur !)」と、ヤウンデのひとびとはよく口にする。都市では村落より多くのカネが流通し、また都市生活ではより多くのカネが必要となる。いかに収入を得、貯蓄、消費、投資するかはアフリカ都市居住者の大きな関心事であり、また死活問題でもある。 筆者がヤウンデの、外からはスラムのようにみえるアフリカ人居住区に住み始めてすぐ、まわりの人が、いつもカネの話をしていることに気づいた。それはたいてい、カネがないことにまつわる難問の数々で、遠まわしの無心であったり、借金の申し出であったりした。しかしそれは、「白人」である筆者(カメルーンでは日本人も「白人」である)にだけではなく、カメルーン人同士でも、たとえば友人や、親族や、雇用主と従業員などの間で、カネにまつわる頼み事が頻繁に行なわれていた。またカネをめぐっては、誰が浪費家であり、誰がケチであるという個人的な評価から、エスニック・グループごとの評価まであった。 本書で中心的に扱うエスニック・グループのバミレケは守銭奴であり、ベティは浪費家であり、ドゥアラはカネもないのに見栄っ張りであるなど、エスニック・グループとカネが結び付けられて語られていた。筆者はその「ケチな」バミレケの年配女性の家に下宿させてもらっていた。彼女の口癖は「カネがない」であり、彼女は筆者にも倹約するよう促した。ヤウンデ唯一の公共交通機関の乗合タクシーには、正規料金ではなく必ず値切って乗ること、ミネラルウォーターを買うなら一本ずつではなくダースで買うこと(そうすれば一本あたりの単価が安くなるから)など、彼女はさまざまなアドバイスをくれた。それを素直に実行した筆者は、タクシー運転手から、「白人のくせにバミレケのようなヤツだ」と嫌味を言われることになった(しかし、こういう運転手自身バミレケであることもある)。この、多分にステレオタイプ的なエスニック・グループのカネをめぐる特徴は、政治的な話題にも発展し、「カメルーン大統領は浪費好きのベティであるから、貴重な財源をみな食ってしまうのだ。バミレケならもっとうまくやるのに」と語られたり、「反体制のバミレケは、カメルーン政府を転覆させるために、政府系銀行からカネを引き出している」などと語られる。 このように、ヤウンデという都市においては、カネにまつわるさまざまな行為や考えが日々評価され、話題になる。カネをめぐる活動が、ひとびとの都市経験の大きな部分を占めるならば、それらの活動を明らかにすることは、彼らの都市経験の大きな部分を明らかにすることになろう。都市とはすでに出来上がった所与のものではなく、そこに暮らす一人ひとりの経験が日々新たに作ってゆく空間だからである。筆者が貨幣をアフリカ都市研究の中心にしたのは、このためである。 アフリカ都市にも他の地域の都市と同様、あるいはそれ以上に、貧困・失業・犯罪など数多くの問題が山積している。都市はそもそも、苦しみも喜びも混ざり合う空間であり、アフリカ都市も例外ではない。本書を通して、笑顔あふれる楽園でもなく、犯罪だらけの地獄でもない、「普通の」アフリカ都市の暮らしを、そしてそこに暮らすひとびとが、何を考えどのような工夫をしながら、よりよい生活を模索しているのかを伝えることができればと考えている。