目次
はじめに
1 民俗芸能
第1章 メキシコ民俗舞踊——メキシコ形成の歴史絵巻
第2章 ダンサ、バイレ、バレエ——伝統の占有
第3章 征服の踊り——正義の民俗的表現
第4章 マリアッチ——メキシコ国民音楽
2 民俗芸能の裏舞台
第5章 地 誌——さまざまな文化を生み出してきた多様な自然環境
第6章 動植物——われわれの生活に欠かせない新大陸原産の動植物
第7章 ミルパとチナンパ——耕されるメキシコ
第8章 メキシコ人の食卓——異文化の出合いが生んだ味とマナー
第9章 民族構成——メスティソ神話の形成
第10章 先住民言語——囲い込まれる民族文化
第11章 民族服——身体にまとわれた風土と歴史
第12章 市 場——民族文化の縮図
第13章 ジェンダー——メキシコ人男性がマチョである理由
3 フィエスタ装置
第14章 教会堂——生活の原点・祭りの舞台
第15章 仮 面——先スペイン期の伝統とヨーロッパの伝統の混在
第16章 村祭り——個人的信仰とナショナル・アイデンティティの交渉
第17章 祭礼組織——共同体規範と個人主義
第18章 巡 礼——ローカルな信仰を国家アイデンティティにつなぐ
第19章 宗 教——社会を管理するイデオロギー
第20章 政治体制——トラトアニを目指すカウディージョ大統領
第21章 フィエスタ——メキシコを語るフォークロア
4 先スペイン期の伝統
第22章 メソアメリカとその文化の特徴——地域をまとめる共通の文化要素とは?
第23章 古代メソアメリカの諸文化——先スペイン期の歴史
第24章 テノチティトラン——アステカの都とその社会
第25章 メソアメリカの神話——神と人間の契約の語り
第26章 アステカの出自譚——アストランから始まる遍歴の旅
第27章 アステカの神話——繰り返される世界の創造と破壊、そして太陽の誕生
第28章 アステカにおける芸能——王と神に捧げる踊りと音楽
5 ヨーロッパ的伝統との邂逅
第29章 征服の記憶——アステカ帝国の征服譚
第30章 植民地社会の出現——再編成された先住民社会
第31章 新しい小宇宙——改宗する先住民共同体
第32章 16世紀メキシコ・ルネッサンス——植民地期先住民が描いたメキシコ
第33章 伝統技術と新しい工芸——メキシコ民芸品の原点
第34章 グアダルーペの聖母——メキシコ人の愛国心創世神話
第35章 イエスの花嫁と甘い伝統——ユニバーサルであることのメキシコ的表現
第36章 都市の祝祭と村祭り——植民地支配の一形態
第37章 メキシコ・バロック——カトリックに育まれたメキシコの美
第38章 混血社会の肖像——純血主義と混血化の狭間に
6 民俗芸能誕生への胎動
第39章 メキシコの独立——英雄誕生の物語
第40章 米墨戦争——「反米」というアイデンティティの起源
第41章 自由主義改革と保守派の反動——地方ボスたちの夢物語
第42章 ディアス体制と「近代化/西欧化」——開発独裁が目指したもの
第43章 カスタ戦争——新生メキシコ国家の民族問題
第44章 メキシコ革命——メキシコ現代史を創る
第45章 反革命運動——革命諸派「共通の敵」の出現
第46章 農地改革——「土地と自由」を求めて
第47章 インディへニスモ——先住民政策の変遷
第48章 メキシコ・ナショナリズム——メキシコ的であることの追求
第49章 国民経済建設の試み——「米国型国民経済」の夢
7 ビバ・メヒコ!
第50章 トラテロルコ事件——革命体制の行き詰まり
第51章 対外債務危機——国境を越えるマネーとメキシコ経済の破綻
第52章 債務処理と構造調整——革命路線の放棄?
第53章 北米自由貿易協定(NAFTA)——メキシコの米国化?
第54章 マキラドーラ——NAFTAの光と陰(1)
第55章 トウモロコシ問題——NAFTAの光と陰(2)
第56章 リゾート開発——メキシコの観光政策
第57章 テキーラ——醸造されたメキシコ
第58章 出稼ぎ——移動の歴史と社会経済的背景
第59章 国外移住——越境する共同体
第60章 チカーノのアストラン神話——メキシコ・ナショナリズムの再構築
【コラム1】ヤキ族の神話
【コラム2】今日の秘密を解き明かすマヤの昔話
【コラム3】未来を語るフォークロア
メキシコを知るためのブックガイド
索引
≪執筆者一覧(編者以外)≫
杓谷茂樹、谷洋之、三澤健宏、横山和加子
前書きなど
はじめに テキーラとサボテンの国であるメキシコではメキシコ人男性はくちひげをたくわえ、ソンブレロというつばがものすごく大きな帽子をかぶっている。メキシコに関して多くの日本人はこんなイメージを思い浮かべはしないでしょうか。多少、歴史に興味がある人なら、メキシコはかつてマヤやアステカなどの古代文明が栄えた場所であることを思い起こすかもしれません。あるいは、音楽グループのトリオ・ロス・パンチョスやマリアッチ音楽、食べ物のタコスなど、いわれてみれば、そんなものもあるなあと思い出す人もいるでしょう。 しかし、私たちはなぜこうしたものあるいはイメージとメキシコとを結びつけて記憶しているのでしょうか。そういったものあるいは情報がメキシコから直接もたらされたのだとしたら、メキシコにおいてそれらを結びつけるアイデアはそもそも何に由来するのでしょうか。また、なぜそうしたアイデアが日本で流通しているのでしょうか。 そもそもメキシコにあるものなのだから、そういったものがメキシコを表象するのは当たり前ではないか、ましてや、メキシコの特産物や文化であるのならば、そういったものが外国に出回るのは当然だ、と考えたとしても不思議ではありません。しかし、日本だけでなく、メキシコ国内を含めて全世界に流通している、メキシコという国家を表象するシンボル群は、メキシコの持つ多様な自然や文化様式のなかから選び出されたごく一部のものでしかありません。つまり、上記の問いは、メキシコを表象するシンボルの設定にあたって、なぜ上述のものだけが選ばれたのか、またその選択を行ったのは誰なのかという問いでもあるのです。メキシコのシンボルとなったそれらのものは歴史的発展の過程で社会的経済的な優位性を獲得したからだろう、という解釈も可能です。結果論的に言えばそうなのですが、ではなぜそれらはそうした優位性を持ちえたのでしょうか。 メキシコに関しては日本語でもすでに、エッセーやガイドブックから専門的な研究書に至るまで数多くの図書が出版されています。こうした図書をひもとけばおそらく、上述のものが社会的経済的優位性を獲得するに至る歴史的背景について知ることができるでしょう。しかしながら、メキシコを象徴するイメージ群がどのように流通し出したのかについて紹介した図書はおそらく皆無です。むしろ、ほとんどの図書はメキシコとはいかなるものかを熱く語ろうとします。しかも、その語りのなかで通常は、すでに流通しているイメージを流用したり再解釈したりするだけです。それらはメキシコをほかの国から識別するための単なる記号にしかすぎなかったはずなのに、一転してメキシコを説明するための原理ないしは論理と化してしまうのです。その場合、私たちはもはやメキシコの歴史形成とは関係のない外国人であり、メキシコを表すシンボルが生成された過程には一切関与していないという立場をとることは難しくなってしまいます。なぜならば、私たちはそのシンボル群を使用し、時には新たな解釈を付加することで、シンボルそのものを強化しているからです。それはシンボルを生成した人びとあるいは論理を擁護する行為にほかならないでしょう。 メキシコはいまだ日本人にはあまりなじみのない国でありながら、メキシコを知る日本人はけっして少なくありません。しかも、メキシコを知る、おそらくすべての日本人はそれぞれに異なるメキシコ観を持っているでしょう。日本に流通するメキシコ・イメージはそうしたさまざまなメキシコ観の最大公約数であるのかもしれません。しかし、あえて繰り返しますが、なぜそれらが最大公約数たりえているのかを誰も説明してくれません。メキシコ経験の多い人であればあるほど、そうしたシンボル群でメキシコが語られることに渋い顔をするでしょう。だからといって、それらのシンボルでは語りえないメキシコの別の顔を紹介するだけでは、別の意味でメキシコを矮小化して語ることにしかならないはずです。 本書は明石書店企画エリア・スタディーズの一環をなす図書であるため、メキシコに関する地理や歴史、社会、文化、経済など基礎的な情報を提供することを一応念頭においています。ただ、すでに紹介されている事柄を整理するだけのミニ百科事典的な記述は極力避けました。むしろ、各項目に関して、執筆者は各人の個人的な経験に基づいて、今まであまり語られてこなかった点に注目しながら論じたつもりです。その意味では、本書もメキシコに関するもう一つの顔の紹介に過ぎないのかもしれません。 しかしながら、本書の真のねらいは、今日世界中に流布しているメキシコ・イメージが形成されるに至った歴史的背景について紹介することにあります。そのなかでも、本書ではメキシコ民俗舞踊を代表とするメキシコ・フォークロア(メキシコの民俗文化)の誕生に注目しました。私たちがメキシコに対して抱くイメージ成立の背景を探ることは、私たち自身がそれを受け入れている理由を明らかにすることともつながっています。なぜなら私たちはメキシコから発信される情報を必ずしも鵜呑みにしているわけではなく、メキシコは異文化であるという認識枠組みに適合する情報だけを取捨選択し、時にはそれを増幅したり変形したりして私たちの意識のなかに格納しているからです。つまり、メキシコ・イメージ成立の過程を振り返ることは、私たち日本人はどんな眼差しでメキシコを見てきたかをも問い直す試みでもあるのです。その意味でメキシコ・フォークロアはメキシコに対する私たち自身の眼差しを相対化する手段ともなりうるはずです。 本書ではまずメキシコの民俗舞踊についてごく簡単に紹介しています。民俗舞踊はメキシコ革命後のナショナリズムと深く結びついた現象であること、さらには民俗芸能などのフォークロアにもメキシコ・ナショナリズムが大きな影を落としていることを理解していただくことが、第1部「民俗芸能」の目的です。 第2部「民俗芸能の裏舞台」と第3部「フィエスタ装置」では民俗芸能が実際に行われる状況を理解してもらうために、メキシコの地理や社会、文化等に関して基礎的な情報を提示しています。 第4部「先スペイン期の伝統」では、民俗芸能に表れる先スペイン的特徴を理解するための手がかりとなるような基礎的な情報を紹介しています。また、第5部「ヨーロッパ的伝統との邂逅」では、民俗芸能がスペインによる植民地支配のもとでどのように形成されてきたのかを知るための手がかりとして、植民地支配のもとで先住民文化が変容していく様について解説しています。 第6部「民俗芸能誕生への胎動」では、個々の村で伝統的な儀礼としてのみ受け継がれてきた伝統芸能が国民的な民俗舞踊として作り上げられていく歴史的背景を、スペインからの独立を契機とするメキシコ国家の形成との関係のなかで解説していきます。 最後の第7部「ビバ・メヒコ!」では主として、想像の共同体として作り上げられてきた国家メキシコが現在どのような問題と課題を抱えているかを紹介しています。 メキシコに関して紹介すべきことはほかにもまだまだたくさんありますが、紙幅の都合で、本書では以上の六〇章となりました。ほかの項目に関しては別の機会に譲ることとします。また、「舞台」演出家としては「観客」のみなさまに「舞台」を堪能してもらえるための最大限の努力をしたつもりですが、個々の演技に関しては各執筆者に委ねざるを得ませんでした。演出家の意図が正確に伝わったか否かは別として、各執筆者は各自の演技に全精力を傾けているはずですので、個々の演技を楽しんでいただくという観覧の仕方もあるかもしれません。いずれにせよ、観客あってこその舞台ですので、観客である読者諸氏から忌憚のないご意見をいただけることが執筆者全員にとってのこの上ない喜びである、と同時に今後の励みにもなることを申し添えておきたいと思います。(後略)